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さて、前置きが長くになりましたが、CDを聴いての感想を簡単に書いてみたいと思います。
なによりもまず、ガット弦の音の広がりの良さが感じられました。新作の楽器だからか、音のきめ細かさとか、凝縮された感じはあまりないのですが、恐らく巻き線の弦よりも響きが豊富だと思いました。また、音がより自然に弓の動きに付いてくるという感じがしたことと、左手の指をしっかりと押さえなくても音になりそうな感じがしました。 当時のパガニーニの再現という意味合いもあるのかも知れませんが、それを措いても、サウンド的には面白いアプローチだと思いました。 それから、マイクが近い。佐藤さんのブレスや、指板を叩く音が聞こえてくる近さですね。ブレスの取り方は表現に直結することですので、佐藤さんがどのようにブレスを取っているのかが分かって、興味深いですね。ブレスの取り方という以前に、呼吸をきちんとせずに(=深く息を吸わずに)演奏してしまうことが多い僕には、反省点でもあるのですが。。。 後は、テクニックを聴かせるための作品、と捉えたときに、どのように表現すれば効果的なのか、ということが考え抜かれた演奏だと思いました。実は、この作品(カプリース作品1)は、テクニック的に難しいからか、きちんと弾けていることだけが伝わってくる演奏が多いです。聴いている人が思わず吹き出してしまうような、そのような滑稽さというか意外さというか、そのような部分まで「見せて」いる演奏は、多くはありません。が、佐藤さんの演奏は、そのような聴かせ方を意識していると思いました。 曲毎にも、フィンガリングとかニュアンスとか、いろいろと気づいたことはあるのですが、人それぞれだと思いますので、ここでは省略します。如何に楽に弾けるかは、脱力ももちろんですが、フィンガリングに相当依存すると思うので、これからも研究していきたいと思います。 Ruggiero Ricciが弾くこの作品のDVDが出ているのですが、しばらく前にそれをビデオで見たときに、「この人はなんと楽々この曲を弾くのだろうか。。。」と驚嘆したことがあります。そのようなアプローチをとりながら、僕自身もこの作品をじっくりと眺めてみたいと思いました。そういうモティべーションを与えてくれた演奏でした。 <本日の楽器>Giuseppe Lucci 1965 ![]() パガニーニは、当時、どのような演奏をしていたのでしょうか。
このテーマについては、往年の巨匠Ruggiero Ricciが、"Ricci on Grissando"というタイトルで本を書いています。主として左手のテクニックについて、シフティングでの親指の役割や、同じ指で続けて音をとるフィンガリングのことなどが書かれています。 当時の演奏スタイルに思いを馳せるよすがになるだけでなく、現在の常識的なシフティングやフィンガリングよりも、楽に演奏できる方法があることが分かり、とても興味深いと思います。 それにしても、カプリースひとつとってみても、彼の作品は、明るくシンプルなメロディーと、超絶技巧の部分が随所で交錯していて、超絶技巧だけにこだわると、メロディーのシンプルな美しさが犠牲になってしまうように思います。 その超絶技巧についても、確かに難しいことには違いがないのですが、彼が、このような超絶技巧を随所に盛り込んだ作品を書いた意図として、やはり、彼が出てくるまでは誰もやらなかったことを披露することで、聴衆を喜ばせるエンターテインメントの要素があるのではないかと思います。 バイオリンでこんなことが出来るのか!という新鮮な驚きと、何やら細かいことをネチネチとやっている「作業」の不思議な滑稽さとが入り交じって、当時の聴衆は大いに楽しんだことでしょう。 僕は、そのような要素を、パガニーニの演奏に期待します。 この点で、佐藤俊介のカプリースには、とても楽しめる部分が多くありました。 中には、僕が彼ほどの技術を持っていたならば、ここはこうしただろう。。。という箇所もあります。バイオリンを弾く人は、このような聴き方をするのも楽しいですよね。 <本日の弓> Joseph Fonclause ![]() もう既にお聴きになった方も多いかも知れません。
佐藤俊介は、デビュー盤のイザイの無伴奏ソナタの演奏を聴いて以来、 僕の最も気に入っている演奏家の一人です。 その彼が、(裸の)ガット弦を張った新作の楽器で演奏したカプリースのCDをリリースしたので、早速、聴いてみました。 ドラマとか映画とか、何度も見直すと、その都度画面のどこかに新しい発見がありますよね? それだけ、人間の感覚はどこかにフォーカスしがちで、全体を捉えにくいものだと思います。 これは彼のカプリースにも当てはまると思います。既に10回以上聴いていますが、 そのたびに、新しい発見がありました。 一言で言うならば、恰も見慣れた名画の、作曲当時のビビッドな色彩感が再現されたという感じです。そこには、こうであっただろう、こうでありたい、という演奏家の思いも当然入ってくるはずなので、パーツ毎には好みに合う合わないがあるかも知れません。 詳しくは、いずれの機会に。。。 <本日の弓> Etienne Pajeot (school) ![]() 名演奏とは。。。この質問を知人にぶつけてみました。
知人はプロの演奏家との交流が多い方で、また、 プロになるために地道に努力をしている幼い人、若い人のその努力ゆえに、 こうした人たちに一種の尊敬の念を抱いている方です。 彼曰く、名演奏とは、行き届いた演奏とのことでした。 楽譜に書かれた情報をきちんと音にしていくためには、技術も必要ですし、 表現上も、バランス、音質、テンポなど、言葉にし切れない要素も含めて、 いろいろな視点がありますね。 これらのことに一通り目配りができている、ということ自体が大変なことだと思いますが、 逆にそれだからこそ、「行き届いた」演奏は、それ自体が名演奏だと思えるのかも知れません。 僕もバイオリンを弾く人間ですので、人の演奏を聴くときに、どうしても、 演奏者の耳で聴いてしまいます。そして、 名だたる巨匠の演奏に感動してきた一方で、 巨匠とされない演奏家の「行き届いた」演奏にも、大いに感銘を受けてきました。 結局は、名演奏というラベルを貼るかどうかの違いでしかないのかも知れません。 <本日の弓> Andre Chardon ![]() お久しぶりです。あっという間に今年も5月末。
月日の経つのは本当に早いものですね。 さて、「名演奏」と言われる演奏に出会うことがありますが、 自分で「名演奏」を選ぶとなると、相当難しいですね。 目線を少し変えて、自分が良いと思う演奏についてはどうでしょうか。 自分にとって心に響く演奏は、「名演奏」だから心に響くのではなく、 言葉以前に心に届くものがあったからだと思いますし、自分にとってはそうでも、 他の人の心には響かないこともあるでしょう。。。 そんなことに思いを巡らせながら、さて、僕の心に響く演奏はどんな演奏だろうか。。。 一言で言うならば、ひと味違う演奏で、自分の感性にしっくりくる演奏ですね。 最近の世の中では、差別化という言葉もよく使われていて、それを気にする余り、 違いを作ることが先になり、違うことをもってよしとするような風潮すらあります。 これは本末転倒ですね。 人それぞれ違う環境で生まれ育ち、生活しているのですから、 同じものを見聞きしても、感じることは同じではないはずですよね。 そういうところから、人の感性はそれぞれですし、 演奏の違いも自ずから生まれるのでしょう。 その違いが聞こえる演奏は、興味を持って聴くことができますし、 そういう演奏の中に、僕の心に響く演奏があると思います。 多少大げさな言い方をすれば、その人が生きていて、音楽作品を音にしている、 というプロセスがひしひしと伝わってくる演奏でしょうか。 こんな思いを秘めつつ、普段聞き慣れたCDを聴いてみると、 そこに何らかの発見があるのは、面白いことですね。 <本日の楽器> Mario Gadda c.1970 ![]() 気づいてみたら、昨年は、1年近くもブログを更新していませんでした。
この間、根気よく立ち寄ってくださる方も(RSSも?)多く、もうすぐ10万アクセスです。 どうもありがとうございます。 さて、ブログは更新しなくても、僕自身にとって、バイオリンの魅力はさらに大きなものとなり、少しでも本来の明るく輝くバイオリンの音色に近づくため、自分の奏法をじっくりとみつめることに時間を振り向けてきました。 そこそこの演奏に甘んじるのでなく、偉大な作品の真髄に少しでも触れられるよう、自分なりに腕を磨いてきたつもりです。また、演奏上の問題をできるだけ効率よく解決するための練習方法を見直してきました。 このブログでも、かつてその「ノウハウ」をご紹介してきましたが、レファレンスとして使うには、ブログは多少不便かも知れません。やはり、ブログはエッセイのようなものに向くのでしょう。 そこで、今年は、ホームページを立ち上げて、普段レッスンを受けていない(僕を含め)アマチュアの方々が、限られた時間を、より音楽作りの方に振り向けるため、奏法上の問題を解決する糸口をできるだけ簡便に見つけられるFAQ、HELP、トラブルシューティングのようなものにしていきたいです。 しばらくは、その準備で、またブログの更新が疎かになるかも知れませんが、少しずつ作り込んで、作成途中でも、準備がある程度できたところで、このブログでもアナウンスしたいと思います。 本年もどうぞよろしくお願いします。 VIOLINK タイトルの「音と言葉」は、かの有名なフルトヴェングラーの著書の邦訳版のタイトルでもあります。その本の内容とは直接関係はないのですが、最近、音のことを言葉で表すことの虚しさというか、音のことは音に聞けのようなことを感じることが多くなりました。
音の持つ情報量は言葉の持つ情報量よりも多い、ということなのでしょう。それは生い立ちを振り返ってみれば至極当然のことで、言葉も文字も、人の意志をもって初めて発せられるが、音は、自然界で生み出されるところに発端がある。この違いでしょうか。 情報社会に生きている私たちは、技術の進歩によって、より多くの情報量をよりコンパクトにより速く伝える、というプロセスを日常的に感じながら生活しています。音楽に込められる情報量、情報の伝わる速さというものは、言葉の比ではないと僕は思いますし、それだからこそ、音楽にどれだけの情報を感じ取れるのか、それをどれだけ表現できるのか、ということと向き合うことへの無限の興味と喜びを感じるのでしょう。 最近は、ベートーヴェンのソナタを第1番から丁寧に譜読みをしています。ベートーヴェンが先達たるモーツァルト、ハイドンといった巨匠の後に生まれて、どこに自分の存在感を示そうとしたのか、譜面を読めば読むほど、そういう工夫というか主張が伝わってきます。そして、そのような主張をクリアに表現した録音もあります。また、演奏家のための解説本もシゲティやロスタルが書いています。これだけ勉強の材料が揃ったソナタはベートーヴェンのものを措いて他にはないでしょう。 しばらく先になるでしょうが、こうした取組みの成果を、ネットを通じて皆さんにご披露できるようになることを目標に据えて、これからも、日々時間の許す限り、精進していきたいと思います。 元来、僕は余りCDを買う方でもないのですが、この佐藤俊介のCDは例外です。イザイの無伴奏ソナタでCDデビューするのも異例ですが、第二弾が小品集というのも意外でした。しかし、そういうところに、彼の主張が如実に感じられることで、僕にとって、まずこのCDが持つ価値となっています。
演奏について批評することはしませんが、ストラドのよい音を目の前で聞いたらこういう感じなのでしょうね。爽やかで明るくて、音を聴いているだけで森林浴をしているような、そんな気分にさせてくれます。 それにしても、かつての巨匠たちの演奏を目の当たりにするような歌いまわし。古きよき時代の、人々がまだ気持ちに余裕を持っていたであろう頃の、懐かしい響きがするのに、それだけでは終わらずに、明らかに巨匠たちとは違う表現が随所にみられることは、20台前半という彼の年齢からは、いささか不思議な感じすら覚えました。 恐らくは、幼少の頃から、単にバイオリンの勉強をしてきたというだけでなく、まさに巨匠たちの豊かな音楽を普段から耳にし、それが肥やしとなって、自分の歌の世界が形成されてきたのでしょう。借り物でないかくも格調高い音の世界に出会うのは久しぶりのことです。 生まれていない時代の音楽を、確実に次の世代(=今世紀生まれの人たち)に受け継いでいく伝道師のような役目を果たしてくれることを、期待したいと思います。 Grammophonから最近リリースされたCDで、レーピンが弾くベートーヴェンの協奏曲とクロイツェル・ソナタが入っているのを、聞きました。
HMV池袋で、ふと流れてきた聞き覚えのあるティンパニの音から、「ああ、ベトコンね」と、これだけで終わって、レジを済ませて店を出るはずが、ラックの間をうろうろ徘徊しながら、結局、この曲の最後まで聞く羽目になりました。 一言で言えば、これまで幾多のCDで聴いてきた曲たちであり、僕自身、それなりのベートーヴェン像というものを持っているつもりなのですが、随所随所で、それをいとも簡単に超越してしまう、そして、これこそが本当のベートーヴェンに近いのだろうと瞬時に思わせてしまう箇所が、そこかしこに見つかる、そんな演奏でした。店で全曲聴いてから、そのCDを買うのは、今回が初めてです。 何がベートーヴェンの本当の姿なのか。そんなことを自問してみても、恐らくベートーヴェン自身の中にしかないものなのでしょうから、確たる答に辿り着く可能性はゼロだと思いますが、少なくとも、今まで聴いた演奏とは違う何か、というよりも、今まで聴いた演奏以上の何かが、これらの作品から引き出されている、と感じました。 ベートーヴェンの解釈について、レーピンはメニューインを相当に意識したそうです。そして、今回が、彼にとってのこれらの作品の初レコーディングだそうですので、ベートーヴェンを表現するということへの、彼の姿勢や執念のようなものも、一緒に伝わってくるような気がしました。 そして、いつも通っている道で、いつものように道端に転がっている「小石」が、ふと見るとダイヤの原石だった。。。ほかにも何か宝物が転がっているかも。。。と、今からわくわくしている、というのに似た「余韻」が残っています。 2日前、とある教会で開かれたコンサートに出かけてきました。教会堂いっぱいに響くパイプオルガンの響き、そして、声楽家ご夫妻によるソプラノとバリトンの競演も、集まった人々の心をつかんで離さないものがありました。
パイプオルガンと声楽、この2つの楽器は、それら自体が、他の楽器とは違う要素を持っていると、僕には思えます。 パイプオルガンほど響きに拘って作られる楽器はありません。聞くところでは、教会堂やホールのように、パイプオルガンを設置する場所の響き具合を考慮して、パイプオルガンの設計はなされるようです。そこまで考えられた響きを、僕たちは耳にすることになるのですね。空間全体が鳴っているという実感を、パイプオルガンほど持たせてくれる楽器はありません。 そして声楽。我々にとって一番身近なはずの「声」ですが、声楽ともなると、声の張りとつや、そして響き、音量と、日常で馴染んでいる声とは、まるで別世界ですね。人間の可能性への挑戦のような側面もあるでしょう。「よくもあんな声が出るものだ」という感想を、声楽の演奏を聴くたびに持ちます。また、意味までは分からないものの、音としてクリアに発音されるイタリア語の歌詞も印象的です。 さて、このパイプオルガンと声楽。教会堂いっぱいに広がる豊かな響きも、面的に広がる響きと、一点から放射状に広がる響きとを、一緒に楽しむことができました。 と、コンサートの感想を書くのが目的ではないので、焦点がぼけないように、曲目の紹介は割愛させていただきます。(笑) で、何が目的かと言いますと、パイプオルガンと声楽は、バイオリンの目指す唯一(唯二?)の楽器だということです。 楽器の中で一番声楽に近いと言われるバイオリンの明るいソプラノの音色、J.S.バッハの無伴奏曲に表現されたパイプオルガンの響き。こういうことに多少思いを馳せてみるだけでも、バイオリンの音色、響きの理想をパイプオルガンと声楽に見出すことは、さほど難しいことではありません。 そして、楽器の構造上は、これは理想であって決して到達し得ないだけに、そのギャップを何で補うか、という発想に意味があると思います。その答は簡単には見つかりませんが、日々、この究極の2つの楽器のイメージを持ちながら、バイオリンに接することが大切だと思います。 このように、心の豊かさとともに、バイオリンの演奏に関する幾多の示唆も得られたひとときでした。。。 人それぞれクラシック音楽の愉しみ方は様々でしょうが、それにしても何と奥の深い愉しみだろうかと、思いを馳せてみました。
まずは楽器を弾く側。長い時間をかけて楽器の弾き方を覚え、その先には、作曲家の思いのこもった楽譜の解読作業。CDの聞き込み。それを人前で聴かせるための鍛錬。演奏仲間との喧々諤々の楽しい会話。本番でのお客さんとの微妙な駆け引き、それ以前にステージ上での死闘。そして、コンサート後の打上げへ。(これはアマチュアの特権でしょうか。) そして、バイオリンの場合、ほかの楽器以上に切実な楽器・弓選び。子供の頃からの買い替え。大人になってからのグレードアップ。手元不如意の際には泣く泣く処分。(古い言い回しですね。意味分かりますか。)この処分というのは、通常はないですね。。。古くはパガニーニが賭博に負けて楽器を手放した、という話がありますが。まだまだ。不注意(?)による置忘れと盗難、保険金支払い、そして発見。楽器選びと言えば、買いたかった楽器・弓が、一足違いで別の伴侶のところへ、ということもあります。 そして音楽を聴く側。曲を知るプロセス、演奏家を知るプロセスでの膨大なCD購入、コンサート通い。音へのこだわり。オーディオ機材への興味・投資。巨匠もたじたじの演奏批評。比較「文化」論(=持論)の展開。突然別世界に連れて行かれて一人涙。楽器を取り上げて弾きたくなる衝動。BGMとして鳴らして雰囲気を堪能。などなど。 実にこまごまとした、様々な愉しみの集合体という気がしますが、話はここで終わりではなく、ここで「空」から「地上」を見下ろす気持ちで眺めてみると、そこには一本の「川」が全体と調和して流れていることに気づきます。 それは、作曲家の思いを演奏家が音にし、その演奏家の息遣いを手元に引き寄せてくるという行為に他なりません。(これはオーディオで聴くのもコンサートで聴くのも同じです。)まさに時空を超えた壮大な営みが、クラシック音楽の愉しみの底流として、しかも時を越えて絶えざる流れとして脈々と受け継がれてきて、これからも受け継がれて行くということにこそ、僕は奥深さを感じたのですね。 一生の友とするに相応しい、この「奥深さ」との出会いがいつだったかは思い出せませんが、この「奥深さ」に思い至ったのは、つい数時間前のことでした。(笑) ロングトーンの途中で弓を返さなければいけないケースがありますね。その返しをスムーズにやるためには、隠し技(?)として2つのことが考えられると思います。
まず、基本的な考え方として、返す前後で条件を変えてはいけない、ということで、弓のスピード、弓に乗せる重さ、駒からの距離があります。このうち3つ目は、弓の返しで瞬間的に変えることはむしろ難しいので、大抵は意識しなくても大丈夫ですね。 と、理屈はこうなりますが、実際には、これだけではどうしても音の継ぎ目が聞こえてしまいますので、工夫が必要だと思います。その工夫とは、弓を返す前に響きを作っておき、その響きを殺さないように返すということです。そのためには、弓を返す瞬間に向かって、弓のスピードをわずかに上げていくような、響きをどんどん増幅させていくような感じで弾くと、上手く行くことが多いですね。(あくまで「感じ」であることが大切です。) もう一つは、ヴィブラートの工夫です。ヴィブラートは、音程の高いところが人間には聴こえやすいそうで、正しい音程をピークに下向きに揺らす、というのがほぼ常識になっていると思います。これを応用すると、ヴィブラートの音程のピークでないところで弓を返す、というアイディアが浮かんできます。 本当は、ヴィブラートの音程の一番低いポイントで返すのが、上の考え方に照らせばベストなのかも知れませんが、その一点を狙っても上手く行きませんので、多少、余裕を持って考えます。実験してみると、弓の返しが目立ちにくくなると感じられると思います。 尤も、この点だけに気をとられるようになると、本末転倒も甚だしいのですが。。。 昨日たまたま、とある著名なカルテットが演奏するラヴェルのカルテットの録音を聴いたのですが、とても表情豊かな演奏で、いろいろな気づきがありました。
その際たるものは、テンポとダイナミクス、そして調性は、お互いに独立ではなく、密接に関係しているということです。 本当は、こういう書き方をするのは本末転倒だと思うのですが、敢えて書きました。 例えば、誰かが自分の目の前で、楽しかった話、悲しかった話、つまらなかった話を順に話したとします。恐らくは、それぞれに顔の表情、声の調子・スピード・高さなど、楽しさ、悲しさ、つまらなさのニュアンスを帯びていたことでしょう。 しかし、話を聞いて、「彼の話は、顔の表情と声色とが密接に関連していてニュアンスに富んでいた」という感想を持つ人はいないでしょう。また、「よし、自分の話をニュアンスに富んだものにするために、顔の表情と声色との関連に注目しよう」とも思わないでしょう。 というわけで、本末転倒だと思うのですが、厳密に振り返れば、人間も、自己表現の形を習得するプロセスが幼少の頃にあったはずですし、ましてや、顔や声で自己表現することに比べてはるかに間接的な、楽器による自己表現となると、そのようなプロセスを意図的に経る必要があるとも言えると思います。 ここでは深入りしませんが、楽譜に書かれていることは、作曲家の思いを記号化したものであり、どうしても大づかみになっていると思います。半音の進行は、音程が連続したサイレンのようなものの近似値かも知れませんし、複雑にみえる音の組合せは、もっと複雑な音で構成される鐘の音を模したものかも知れません。 そういうところに、解釈の余地が生まれるのだと思いますし、今回のテーマにしたテンポ、ダイナミクス、そして調性の関係についても、例えば、アレグロとか、フォルテとかと明確に指定するほどではないごく僅かな変化を伴って転調が行われることで、その場所でその調性が持つカラーが引き立ってくるということがあるのだな、ということです。 そういうことを何よりも感じさせられた演奏でした。 これは、ゆっくり練習することとも関連するのですが、ゆっくり弾けてもインテンポでは弾けないとき、考えられる様々な原因の中で、特に見逃されやすいことの一つに、音の立上りに必要な時間(タイムラグ)があります。
音が出るまでにかかる時間、そして、音が出てから楽器が鳴るまでの時間という、2種類のタイムラグがありますね。そして、速いテンポになるほど、一つの音の長さに占めるこれらのタイムラグが無視できないものになってきます。 もちろん、音の立上りは楽器や弓の性能にも依存しますので、練習方法だけの問題でもないですが、道具を取り替えるのは容易なことではないので、ここでは捨象します。 要は、ゆっくり練習するときには、音の立上りに注意を向ける余裕も比較的あるはずですので、インテンポで弾くときにも通用するような、立上りの良い発音を常に心がけることだと思います。 音が綺麗にピンと立ち上がったときの、あの何ともいえないキラキラした音を常にイメージして、憧れを持ちながら、楽しく練習したいものですね。 弾けない箇所をゆっくりしたテンポで練習する、ということは、誰もが考えることなのですが、ゆっくり練習するときのコツを押さえておかないと、練習する意味がなくなってしまいますね。コツとは、テンポを落とすと、音の動きは遅くなり、音の長さは長くなりますが、それ以外の動きはインテンポと同じ速さでやることです。
例外は、ヴィブラートの練習や一弓連続スタッカートのように、手の動き自体をマスターするための練習で、こういう練習では、スローモーションのような感覚で、すべての動きをゆっくりさせて練習する意味があると思います。 逆に、楽譜を前にして、ゆっくりしたテンポから練習するというときは、スローモーションになっては練習の効果が上がりません。例えば、音の立上りの弓の動かし方とか、左手の指を指板に下ろす速さとか、シフティングのスピードとか、そういうものは、ゆっくりしたテンポであっても、インテンポと同じ素早い動きで練習することが大切だと思います。 要は、ゆっくり練習するというのは、いろいろなところに目配りをする余裕を持つためにやるのですね。弾けないところを弾けるようにするための練習は、それ以前の段階の話で、パーツ毎に分解して、スローモーションのようなこともやりながら、その動き自体を体に馴染ませるということだと思います。 ですので、テンポを徐々に上げていくというのは、いちいち目配りしなくても弾ける部分を増やして行くというか、このテンポならこの程度目配りをすれば弾ける、ということを、テンポを上げながら確認していくプロセスだと考えています。 ボウイングが上手く行かない、という悩みを持つとします。上手く行かないとは、どういうことでしょうか。細かく見て行けば、弓が曲がる、弓が弾んでしまうなどなど、いろいろな「症状」が観察できるでしょう。これを逆に、何のために弦を擦っているのか、という問いかけから逆に攻めて行くと、音が上手く出ない、ということだと思います。
要は、綺麗な音を出すための邪魔になるような要素が多ければ多いほど、ボウイングが上手く行かない、という「自覚症状」が強く出ますし、また、どこから手をつけていいのか途方にくれてしまいがちですね。 「症状」の一つ一つに注目して、それを取り除こうとすると、これは「対症療法」であり、根本の原因を取り除くことはできないと思います。ボウイングの場合、綺麗な音が出るかどうかは、弦に腕の重みが綺麗に乗っているかどうかと密接に関連すると思います。ですので、腕の重みを綺麗に弦に乗せるための「手続」を出来るだけシンプルにすることが、安定したボウイングにつながると考えています。 ボウイングの「手続」をシンプルにするとは、どういうことでしょうか。それは、①力の乗せ方が同じときは腕の形を同じにするということと、②力の乗せ方が変化するときの腕の形の変化を最小限にするということだと思います。 そのためにまず、どういう腕の形であれば腕の重みが綺麗に弦に乗るのか、をきちんと把握することが肝心ですね。ここがベースになります。そして、①の関係では、例えば、同じ弦上のロングトーンを弾く時の腕の形はこれ、ということを腕によく覚えこませるということですし、②の関係では、移弦するときの弓の角度の変化が最小限になるようにするということだと思います。 ボウイングが上手く行かない場合、上記のベースの部分がしっかりしていないことが多く、また、同じ音なのに腕の形が変わっていることが多いですね。腕の形(例えば上腕の高さ)が変わると、それに応じて前腕の形を変えないと、同じ音は出ません。一部を変えると全体を調整し直さないといけなくなり、これはシンプルではない複雑な作業になってしまいます。 文字にしてしまうと、こんなところなのですが、皆さんはどのようにイメージされたでしょうか? ボウイングは、そもそも音を出すためのアクションですが、音量、音色と直接関係するアクションですので、ボウイングと表現とは、常にセットで考えていた方がよいと思います。
オケの練習中に指揮者から「もっと歌って!!」とか言われることがありますよね。すると、意識はすぐに左手、それもヴィブラートに行きがちです。それは、指揮者のアクションとして、左手でヴィブラートをかけるようなアクションを見せて、「もっと歌って!!」を指示していることからみても、かなり一般常識的になっていると思います。 ところが、実際はヴィブラートよりもボウイングなのですね。ボウイングが関与しない表現なぞ、どんなにヴィブラートでがんばっても貧相なものです。ノンヴィブラートでもとても音楽的に聞こえるケースもありますし、それだけ、ボウイングによって表現される部分は大きいのだと思います。 さて、ボウイングで表現するためには、単に滑らかに一定の音量で音が出せればよいということではなく、その先を目指す必要がありますね。その先の目標は2種類あって、①弓のスピードを自在にコントロールできることと、②駒からの距離に応じて、特徴ある音色を作れること、ということだと思います。 まず①ですが、これはまず、一定のスピードでボウイングができることが基本ですね。その上で、弾き始めのところで瞬間的に音を立ち上げる(=瞬間的にスピードを上げる。)ことがあり、さらに、弓の返しで瞬間的にスピードを変えること、弓の途中で瞬間的にスピードを変えること、ができるようにするということです。 瞬間的、ということがポイントで、これがなかなか上手く行かないのですが、上手く行かないとどうしても表現がボヤけてしまいます。例えば、ピアノという楽器を思い浮かべてみましょう。ピアノは鍵盤ごとにタッチを変えることができるので、ここで言う「瞬間的」ということが、いとも簡単にできてしまいます。バイオリンでは、ある程度意識的にやらないと、瞬間的にスピードを変えられるようなボウイングには辿り着かないと思います。 次に②ですが、これは①ができることが前提となりますが、要は、駒からの距離に応じて、その場所で出せる音の特徴を余すところなく出そうとすると、場所毎にもっとも適当な弓の圧力とスピードの組合せがあるということです。これは、弓のスピードの制約条件にもなることなので、①の先で神経を使うべきことなのだと思います。 まあ、いずれにせよ、そういうことに気をつけることで、普段、左手のヴィブラートに頼りがちな表現の部分に、右手のボウイングをより積極的に関わらせることができるようになると、表現の幅はぐっと広がる可能性が出てきます。そこまで来れば、後は本人の表現のセンスの問題ですね。実は、ここが一番の鬼門なのですが。。。(笑) 音色を鍛えるとは、何のことかと思った方もいらっしゃるかも知れません。要するに、バイオリンから美しい音を弾き出すためのトレーニングのような意味です。そのようなトレーニングのうち、楽器と弓を持って練習をする以前に、どのような音を美しいと思うのか、どのような音を出したいと思うのか、そのようなイメージ作りというか、内なる自分の発掘というか、そういうものを指しています。
古今東西、世の中にかくも多くの名手がそれぞれの音色を持っているというのは、もちろん楽器の持つ音の違いもあるでしょうが、その音色を持つ楽器を選んだということも含めて、美しい音の種類は、名手の数だけあるとも言えるでしょう。 自分にとっての美しい音とは、説得力のある表現とは、豊かな響きとは、などなど自問するプロセスが、とても大切だと思います。そして、生演奏ばかりを聴ける環境にない人にとっては、CDから生演奏をイメージできるような想像力も助けとなるでしょう。 CDから生演奏をイメージするとは、ライブでもなければいろいろなエフェクトがかかっているであろう人為的な味の付いた演奏を聴きながら、空間の広さのイメージ、自分と音源の近さのイメージ、そして、もっと演奏そのものに関わるイメージ、例えば、弓のスピードとか、弾いている位置とか、アップとかダウンとか、フィンガリングとか、どこでシフティングが入ったとか、そういうことにアンテナを張りながら聴くということです。 このようなことについて具体的なイメージを持てば持つほど、音楽鑑賞から離れてスタディの領域に入ってきますし、自分の演奏に示唆的なひらめきにもつながることも出てきます。いわばケーススタディのような意味を持つものだと、僕は考えています。 新しい曲をさらい始めるとき、ボウイングとフィンガリングを決めるところから始めますよね。このうち、特にフィンガリングの方は、いろいろな思い込みのために、一番弾きやすいフィンガリングが思いつかないことが多いですね。
その思い込みの最たるものは、①弾く音の順番で音をとっていく、②単音のフィンガリングは一本ずつ指を置いていく、③引き終わった音は指を上げる、の3つだと思います。これらは、多くのフィンガリングについては、まさにこの3つが満たされることが、一番弾きやすいフィンガリングでもあるので、普段わざわざ思い起こすことすらないほど、当然のことと考えられています。 しかし、特に弾きにくい箇所では、この3つの「ルール」を敢えて無視してフィンガリングを考えてみると、極端な場合は、弾けないと思ったところがいとも簡単にクリアできてしまう、ということもありますね。 ガラミアン氏やブロン氏が監修している楽譜では、このような意味で弾きやすく工夫されているフィンガリングが付けられたものが結構あります。(音楽的にどうか、というのは別の次元の話だと思います。) ここが弾けない。。。という悩みがある方は、そういう視点から見直してみては如何でしょうか。目から鱗ということがあるかも知れません。 「鳴らす」という言葉のニュアンスは、バイオリンの音が出る仕組みとは相容れないものがあると思っているのですが、世の中ではこういう言い方をしますので、敢えてこのようなタイトルにしてみました。
バイオリンから綺麗に音が出ている状態は、①楽器の状態と、②弾き方の2つの要素が上手く行って初めて可能になりますね。①については、楽器そのものの性能や調整が関係しますが、これはこれで奥深いので、ここでは深入りせず、今回は②の方だけを考えてみます。 あくまで、楽器に問題がない(=①がクリアされている)ことが前提ですが、②のポイントは、楽器から音が出るのを妨げない、というところにあると思います。ですので、どのように楽器から音が出ているのが、楽器から無駄なく音が出ているということなのか、そのイメージを持つことが、まず大切だと思いますね。 楽器の中で発生する音の波が、全て一つになって音のエネルギーとして出てくる、というイメージでしょうか。音程が外れたり、弾き始めで力んだり、などなどのアクシデントは、それぞれにこのイメージから外れた音の出方につながってきます。 これは、完璧にできるようになる、というよりも、その都度その都度、「上手くいった、ふー。」とか、「やば。」とか、自己評価しながら弾くという方が近いかも知れません。その積み重ねの中で、上手くいく確率が上がってくるように思います。 他人の演奏を聴いて、この「自己評価」のためのセンスを養うことも有益だと思います。著名なソリストの録音でも、個々の音となると、バラつきの幅は狭いものの、バラつき自体はそこかしこにあるものです。そういう聴き方をたまにしてみると、良い音の出方に対する「鑑定」ができる耳が育ってくると思います。 特にアマチュアの場合、こういうレベルでの音の出し方については、オケのパート練習や弦分奏などで個人的に指摘を受けることはまずないので、ひたすら孤独な作業になってきます。が、楽器の音色やサウンドに直接関係するので、やるだけの意味はあると思っています。 稀代のピアニストであるアルゲリッチが伴奏し、リッチがソロを弾くコンサートをライブ録音したCDを聴く機会がありました。曲目はフランクとプロコフィエフの2番(いずれもソナタ)です。
これほど雄弁なソロと伴奏の組合せは、他に類をみないと言えるでしょう。それだけに、ピアノ伴奏の存在感とヴァイオリン・ソロの存在感とが、うまくバランスするのだろうかと、聴く前は興味津々でした。 聴いてみると、フランクはまさに火花を散らし合うような演奏で、音量的にソロが負けそうになる箇所も随所にあるのですが、そういう場所は、ピアノがかなり厚く書かれているにも拘わらず、ソロはロングトーンだったりするので、両者のバランスをとるのは、もともと至難の業のようです。逆に、ピアノを抑えると、まるで精彩を欠く演奏になってしまいます。 プロコフィエフの方は、むしろ、今まで聴いたことのあるどの演奏よりも、ピアノの伴奏が絶妙で、プロコフィエフらしい和声の微妙なブレンドが、とても効果的に表現されていました。独特な和声だけに、どの音をコアにするかで、味わいは千変万化します。どの音をコアにしているのかが、これほどクリアに表現されているピアノ伴奏には、なかなか出会えないですね。新しい響きを随所に感じ、とても新鮮な印象でした。 こういう演奏を聴くと、作品の解釈はどうあるべきか、という深遠なテーマに立ち戻ってきます。どこまでが作曲家の意図で、どこからが演奏家の個性なのか。。。。 今回も、このことを自問しながら聴いていたのですが、結局、演奏家の洞察力によって作曲家の意図が鮮明に表現される、ということもあるのだということを強く感じさせられました。 しばらく前にBMGから出ているCDで、オイストラッフが1955年に来日した際に、日本ビクターのスタジオで録音したものがあります。曲目は、ブラームスのソナタ第3番、プロコフィエフのソナタ第2番などです。
最近、このCDを丹念に聴いているのですが、ホールに比べて小さく、反響の少ないスタジオで、オンマイクで、しかも(恐らく)エフェクトなどで音をいじっていない録音のようで、この巨匠がストラドから引き出してくる音が手に取るように聞こえてきます。 高音域のキラキラした倍音、楽器から音が飛び出してくるエネルギー、音自体に備わった凝縮感といったものが、手に取るように聞こえてくるんですね。 CDを聴いているだけで幸せな気分になるのは、久しぶりのことです。 静かなところで、目をつぶって、タイムスリップした気分になって、あの巨匠オイストラッフが、自分だけのために目の前で演奏している。。。などという妄想にひたりながら聴くのも、また面白いかも知れません。。。(笑) こういう音のイメージを持ちながら、普段の練習に取り組むと、それだけでも上達のスピードが違ってくるのではないか、と思いました。 BOSEから音質のよいイヤフォンが出ましたね。価格は1.5万円前後と高いですが、イヤフォンとは思えないほど生々しい(=良い意味です)音が楽しめます。
ヴァイオリンを弾く人間からみると、弾き出しの瞬間に入る音や、ハイポジションでのハーモニクスで聞こえる弓が弦を擦る音など、普通のイヤフォンではカットされてしまうような音が、当たり前のように再生されるところが、素晴らしいと思いました。 また、ヴァイオリンの音質そのものが実際の音質に近いのでしょうか、地下鉄の騒音の中で聴いても、騒音の中から、ヴァイオリンの音の存在が感じられます。確かに、静かなところで聴く音のように、あらゆる音の成分が聞こえてくる、という感じではありません。しかし、そのような騒音の中でも、音の手応えは伝わってきます。 音のスピード感が感じられるのも、臨場感があって良いですね。 他のメーカーの高価格製品は、原理は共通で材料で違いを出している(例えばチタン合金や木材を使うなど)ものが多い中で、BOSEのイヤフォンは、構造で勝負していますね。それだけ、研究開発に手間がかかっているということでしょうか。(←これは想像です。) 何れにせよ、このイヤフォンのお陰で、通勤中の「練習」がますます楽しくなってきました。これで、イヤフォンで気になる製品は、アメリカ製の(何でしたっけ?)無骨なデザインのものだけになりました。 さて、いよいよ右手編です。(とは言っても、左手編が終了したわけではありません。もうお気づきかも知れませんが、左手編も日々(?)拡充しているところです。)
最初のアルペジオを上手く弾くためには、まず、弓をどの位置で弾ませるか、そして、最初の弾き出しのところは、どのくらいの高さから弓を弦に落とすか、という単純なことから始めます。左手は必要ないので、開放弦か最初の音型にでも決めて、ひたすら右手の「実験」に集中します。何回やっても同じ動きが出来るようになることがポイントです。 ちなみに、弓を弦に落とす動きは、この冒頭のところだけでなく、このアルペジオが戻ってくるところ全て必要になってきます。ただし、そのための準備に使える時間の長さは場所によってマチマチなので、冒頭が弾けたからといって他の箇所が弾けるわけではありません。そこで、冒頭の練習でも、この準備をできるだけ素早くやるように心がけてみます。もちろん、実際の演奏ではそんなに素早くやる必要はありません。 また、アルペジオを弾くときには、弾くスピードと重視する音の違いによって、肘の位置を変えることが考えられます。普段の練習では、音程や弓を弾ませることに注意が向かいがちですが、肘の位置をいろいろ工夫すると、4音のバランスが変わってくるので、いろいろ試行錯誤してみるとよいのではないかと思います。 アルペジオを弾くときの肘の位置は、①メロディーラインがある場合は、メロディーを弾いている弦に合わせて、②メロディーラインがない場合は、4弦にまたがるアルペジオであればAD線の重音を弾くときに合わせて決めるのが基本だと思います。ただし、この曲の場合はどうでしょうか? 僕は、今のところ、A線かAE線の重音を弾く位置でやっています。弓を弾ませるときの初動はG線で弾き返すところで生まれるのですが、これがやりやすいということと、アルペジオに続く動きがE線上の音型であるというのが、その理由です。 (つづく ←これも、永遠に「つづく」のままだと思います。(笑)) パガニーニのカプリスと言えば、超絶技巧の24曲で、アマチュアの手に負える代物ではない、という見方も当然あるわけですが、そこはアマチュアの特権で、敢えて挑戦してみることにしました。挑戦するからには、上手く仕上げたい。。。
どんな曲でもそうですが、まずは左手の問題と右手の問題に分離して練習することを考えます。特に、カプリスのように、右手・左手の両方に困難な要素がある作品では、なおさらだと思います。 また、曲全体を一気にさらっていくのではなく、求められているテクニックの違いに応じて、いくつかのパーツに小分けにして練習をしていくようにします。この作品の場合は、概ね、次のように分けてみます。(数字は小節番号です。) 1-14前半、14後半-16前半、16後半-23、24-26、<27-37>、38-43、44-50前半、50後半-52前半、(52後半-59)、(60-67)、68-76 ( )で括ったパーツは、まずは重音を除いた箇所を練習し、逆に、< >で括ったパーツは、重音の箇所だけを取り出して練習するようにします。これが、練習を始めるに当たっての基本方針です。 まずは左手の練習を優先することにして、弓を持たずに弦を弾(はじ)きながら、フィンガリングが簡単に決まるところと、悩むところの振り分けをします。悩むところは、実際に楽器を構えて弾いてみて、いろいろな指使いの中から一番自然なものを、とりあえず採用します。 こうしてフィンガリングを決めるときには、細かい音程の違いは気にせずにやります。フィンガリングを決めてから、パーツ毎に右手を付けて練習します。そのとき、右手の弾き方はできるだけシンプルにし、神経が左手に集中するように、そして、音程に集中するようにします。 この段階で、音程が上手く取れないところは、必要に応じて、補助練習を併用します。上手く行かない理由(指が伸びきらない、指が他の指の動きにつられるなど)を見極めて、それを取り除くためのトレーニングを併用します。 左手の練習ではヴィブラートはかけず、ポジション移動のところは常にガイディング・フィンガーを意識して練習します。ただし、ガイディング・フィンガーを使用することでポジション移動中の音が聞こえることを最小限にするため、できるだけ脱力して、移動を素早くやるように心がけます。 このような練習を、最初に決めたパーツ毎にやっていくことで、左手の問題は解決していきます。特にこの作品は、音楽的な表現を考えるよりも、全ての音をクリアに出すことがポイントなので、ヴィブラートの研究を行う余地はあまりなく、その点は楽だとも言えますね。 ところで、最初のアルペジオについて、いくつか補足。 まず、アルペジオの音程は、基本的に旋律の音程ではなく和音の音程であるべきなので、4つの音の塊を2+2+2に分けて重音として練習するのが効果的ですね。弓を飛ばす練習は後にします。 それから、2つ目のアルペジオ、Dis-Fis-H-Fisですが、これは指が苦しい音程です。3本の指を拡張しないと音程がとれません。こういう場合は、3本の指を常に指板の上にキープするのではなくて、うち1本は浮かせてとか、多少、重心の傾け方を工夫すると、格段に弾きやすくなったりしますね。 もう一つ、5小節目などに出てくる4(32分♪)+2(16分♪)の動きで、後の2つの音のフィンガリングですが、最初の例で言えば、直前のA(3)を弾いてから、素早く(1)で取り直して(=ガイディングフィンガーとして)、Cis(3)+E(4)というようにやると、かなり弾きやすく感じます。これのいいところはポジション移動する距離が短くて済むことです。もちろん、(1)は音として聞こえてはダメで、頭の中で音を出したフリをしてやることが大切です。 次に、下行の重音の練習について。 29小節目以降に時々出てくる下行の重音は、24の音程には注意が向きやすいですが、13の音程は疎かになりやすいです。また、左手の動きとしても13をベースに24が取れる方が楽です。そこで、単純に下行で練習するのではなく、13-24の組合せで重音2個単位で弾きながら下りてくるように練習するのがよいと思いました。 こういう箇所は漫然と繰り返しても上手くいくはずはなく、まず、出来ていない!ということを自分自身に見せ付けるために、右手はスラーにして、ひたすら左手に注目してみます。すると、重音を弾く2本の指の動きにズレがあって、指板に同時に下りていないことがよく分かります。まずはスラーできちんと重音のつながりが聞こえるようになることが先決です。 (つづく ←永遠に「つづく」のままだと思います。(笑)) 皆さんお久しぶりです。。。
1カ月以上もご無沙汰してしまいました。 実は、このブログをこれからどう発展させて行こうか、考えていました。正直、トピカルなものを選んで書いていく、というこれまでのアプローチでは、そろそろネタが尽きてきています。というか、それだけではないな、というのが現在の実感です。 これまで書いてきたことは「考え方」であり、僕自身はこういう考え方で音楽を捉えています、こういう考え方で練習しています、ということに他なりません。それを皆さんに読んでいただいて、僕自身の励みにもなっています。 が、これからは、もう少し実際の練習に近い話に移行したいと思います。自分が直面する技術的な問題を、どのような練習によって乗り越えていくのか、、、特に社会人として、学生時代のように1日○時間などという練習は夢のまた夢(やりたいと思っているわけでもないのですが(笑))という境遇ですので、効率よく練習するにはどうするか、逆に、手っ取り早く済ませようと思ってもどうにもならないこともあったり、、、などなど、それはそれで話題に事欠かないと思っています。 これからもあまり頻繁に更新できないかも知れませんが、たまには様子をみに立ち寄っていただけると嬉しいです。また、練習方法についてもご質問は大歓迎です。このブログで取り上げて、僕なりのアプローチをご紹介したいと思います。 予告編でした。。。 <本日の楽器>Franz Geissenhof 1826 ![]() 最近、楽器を弾きながら思うことの一つに、音楽の「形」を伝える、ということがありますね。音楽の「形」というと、小難しく考えれば、時代時代の、その作曲家固有の様式感というか、お約束というか、そういうものをイメージしがちだと思います。そう考えるかどうかはともかくとして、音楽には「形」のようなものがあって、それを感じる楽しみ、表現する楽しみというものも、楽器を弾く楽しみの大きな部分を占めていると思います。
この「形」を感じ取って表現するためのアプローチは、人により様々であり、ある人は直感的に掴み表現するでしょうし、ある人は理屈に置き換えて理解してから表現するかも知れません。しかし、どのようなアプローチをとるにしても、曲がりなりにも「形」を感じ取れれば、次のステップである「形」を表現することに気持ちを向けていけると思います。 「形」を表現しようとするときに、最初は気づかないことが多いのですが、徐々に余裕が出てくると、自分が表現しようとするものと、音として伝わっていくものの間に、大きな開きがあることに気づきます。そのような開きが生まれるのは、多分に思い入れや思い込みによるところが大きく、そのくせ、その曲の「構造感」のようなものが、自分の中にクリアに持てていないからだと思っています。 そんなときは、思い切って楽器から離れて、楽器を持たずに歌ってみる(声に出さないまでも)のが効果的ですね。 <本日の楽器>J.B.Vuillaume ca.1860 copy of Guarneri del Gesu 1742 'Il Canone' ![]() 楽器からしっかりした音を弾き出すためには、弓に腕の重みを乗せる必要がありますね。しかし、これは結構難しいものです。というのも、弓が弦に触れる点を腕で直接押さえているわけではないからですね。弓という仲立ちがあるので、弓を通じて重みを乗せる、ということを考える必要があるのでしょう。
複雑な動きの練習は、単純化して取り組むことがコツですね。今回も、そのような視点から考えてみます。単純化すると、まず、弓を持たない状態で、手のひらに腕の重みをのせる、という発想から始まりますね。 机の前に座って、机の上に手のひらを置きます。このとき、手首の関節から腕よりの部分(前腕と上腕)は机に付かないようにします。この状態で手の力を抜いていくと、腕の重みが手のひらに乗るようになりますね。この状態が基本だと思います。 次に、腕の重みを手のひらにのせた状態で、手のひらを左右に滑らせてみます。そのときに、腕の重みを軽くせず、重みがそのまま乗っているようにするのがコツです。これをやってみると、予想外に手のひらに重みが乗っていることに気づくと思います。 ここまで来れば、次は、弓を持っての練習になりますね。G線での練習が一番楽ですね。そして、弓元が一番分かりやすいので、弓元から始めて、そのまま弾くのでなく、弓のいろいろな場所で弦を触るようなイメージです。右手の手のひらがきちんと弓を掴んでいないと、上手く行きませんね。その意味で、右手の手指がしっかりしている必要があります。 この動きに慣れてきたら、徐々に、D、A、E線でも同じようにやってみます。弓の角度が水平から垂直に近づくほど、重みをのせるのが難しくなります。少しずつ、単純な形から複雑な形へと、練習を進めていけばよいと思っています。 <本日の楽器> L. Bisiach I 1912 copy of N. Amati ![]() 四方山話的にバイオリンの話を人にすると、古くなると値段が上がるらしいね、とか、古いものほど良いのか、といった質問が返ってくることがよくあります。これらは、ある種の「常識」として行き渡っているようで、僕も人前でバイオリンを弾いて、質問コーナーなどをやると、大抵は、古さや値段に関する質問が出てきます。
さて、古い方が高いのか、古いものの方が良いのか、ということを考えるに当たっては、楽器メーカーの序列ということを考えてみる必要がありますね。というのも、古さだけが値段を決めていると考えられている(あるいは、値段を決めているファクターとして、古さのほかには音色くらいが思い浮かばない。)状況が一般にあると思うからです。 そもそも、どのような楽器が楽器として素晴らしいのか、ということですね。答は意外にシンプルで、①発音体として理に適っていて、②ルックスが美しい、という2点に尽きるのだと思います。これ以外の要素は、付加的に価値を加えるか減らすかであり、例えば、保存状態とか、有名な演奏家が使っていたとか、オリジナル性が損なわれているとか、そういったことは付加的なことですね。 では、①と②は関係がないのかと言えば、②をクリアするものは①もクリアする場合が多いと言われます。これは、何をもって美しいとするか、といった論点とも絡むのですが、楽器メーカーとしての序列は、そのメーカーの典型的な作品のもつ構造や姿の美しさをもとに、過去100~200年の歴史の中で、出来上がってきているのだと思います。 ただし、現在もてはやされているストラドやデルジェスが作られた頃、実は、ドイツのJacob Stainerの楽器の方が高く評価されていたと言われます。その証拠に、この2大巨匠が活躍した18世紀前半より後の時代、つまり18世紀後半にも、Stainerのパターンをモデルにして製作したメーカーがそれなりの数、いますね。フィレンツェのT.Carcassiもそうですし、イギリスではD.Parkerなどもそうですね。その一方で、例えば、オランダのH.JacobsはN.Amatiの影響を受けていると言われますし、より後の時代のJ.T.CuypersはA.Stradivariの影響を受けていると言われます。 そう考えると、楽器メーカーの序列は時代によって変わってきたという面もあると思うのですが、19世紀以降は、演奏効果という面でストラドやデルジェスが認められて、現在に至っているということなのでしょう。 今回は、いささかオタク的な話になりましたが、長い歴史を持つ楽器であるだけに、時代の流れの中で変わらなかった部分、変化を遂げた部分の両方があるということですね。こういうことを探求することは、それ自体結構楽しいものですね。 <本日の楽器> M. Gadda 1982 ![]() バイオリンという楽器は、様々な価値の考え方があります。その中には、価格に反映するものもしないものもありますね。主な価値の考え方としては、作者、年代、出来、保存状態、オリジナルの度合い、ヒストリー、音色、サイズでしょうか。これらの価値の中には、良し悪しの判断が主観的になりやすいもの、良し悪しの問題ではないものが含まれています。
そして、これらの価値は、万人にとっての価値ではなく、例えば、演奏家とコレクターとでは重視するポイント(=その人にとっての価値)は、往々にして異なるものですね。演奏家とコレクターの違いほどではないにしても、例えば、ソリストとオケマンとでは、楽器に求めるスペック(この場合は、演奏効果という面が大きいでしょうが)が大きく違っていると言えるでしょう。 このように、楽器を欲する人たちが楽器に見出す価値は、多種多様だと言えます。人によっては、別の楽器屋で買うよりも安価で入手できる、ということも一つの「価値」と言えるかも知れません。(大変リスキーではありますが。) このため、楽器屋さんにしてみれば、万人を満足させる楽器を仕入れようとしても、それは至難の業と言えそうですね。 そういうわけで、楽器屋さんは、自分のお店の楽器を売るお客さんのイメージを明確に持っているのが普通だと思います。そして、自分がそのお店が楽器を売るターゲットの範疇に入っているのかは、楽器屋さんとのマッチングという意味で、とても大切なポイントだと思います。 それぞれの楽器屋さんについてコメントすることは、敢えて避けますが、僕自身が訪れたことのある楽器屋さんも、その点はまちまちであり、楽器屋さんのポリシーなり思想なりを反映していると思いますね。
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