作者自身の頭の整理のためのメモです。その時々の思いを綴っていきますので、過去記事と内容の重なりがあるかも知れません。(リンク・フリーです。) Photos in the articles: Courtesy of Tarisio Auctions
by violink
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<   2004年 08月 ( 20 )   > この月の画像一覧

<音楽という言葉>メロディーにみる幾何学模様

メロディーに使われている音を注意深く観察すると、それが一定の法則性をもって並んでいることが見つかる場合がありますね。その場合、その法則性がもたらす効果というものも、当然、作曲家が意図したものだと考えられると思います。

その法則性とは、リズムであり、音程です。このうち、リズムはヴァリエーションが多く、いろいろな「崩し」も考えられますが、音程の方は、もちろんヴァリエーションとして装飾音を付けたり細か目の音符に置き換えたりということはあっても、全体の骨格は変えられない(=変えるとまるで別物になってしまう)種類のものだと思います。

例えば、音程の方に着目してみると、ブラームスの交響曲第4番の第一楽章のヴァイオリンのメロディーですね。H-G-E-C-A-Fis-Dis-Hと、 3度の間隔で下がってきた後で、E-G-H-D-F-A-Cと、今度は3度の間隔で上がって行きます。何か、幾何学模様のようですね。

この「模様」に気が付くと、さて、このヴァイオリンのメロディーはどう歌ってやろうかな、というワクワク感が生まれてきますね。何しろ、「模様」の方は下行音型に上行音型ですが、これが途中で何度も折り返してあるので、音の高さとしてみると、さほど下行や上行になっていないというところに、「言葉のあや」があるように感じます。

さて、この楽章には、リズムで形作られる「幾何学模様」も随所に出てきますね。いろいろなメロディーが出てくるように見えて、その素材となるリズムは共有されているので、統一感が出てくるんですね。前に出てきたメロディーに含まれている、その素材(=リズム)のことを意識しながら演奏することで、そのような統一感が聴く人にも伝わっていくように感じます。

こういうスコアの読み方は、恰も宝探しのような感覚で楽しめますね。「宝」が一つ見つかるたびに、お墓の中で誰かがニヤッとしているに違いありません。(笑)
by violink | 2004-08-27 08:53 | Interpretation | Comments(0)

<音楽という言葉>調性のせめぎ合い

「はい、ここからは何調でしょう?」と、あるスコアのある部分を指差して尋ねるA君。「C-durです。」と、得意げに答えるB君。「いや、E-durでしょう。」と、低い声でさも自信ありげにつぶやくC君。

スコアのある部分とは、ブラームスの交響曲第4番の第2楽章の終わりから7小節目のpoco rit.の次の小節からです。この小節に関しては、確かにC-durとE-durのブレンドのような響きがします。このブレンドが絶妙ですね。

E-durの音階をみてみましょう。上記の箇所では、Gisは出てきますが、Fis、Cis、Disは出てきません。もしこれらの音が出ていたならば(=チェロがアルペジオではなく音階をやっていたならば)、よりE-durの香りが強くなっていたでしょう。そうせずに、しかも、Gisを管楽器ではなく弦楽器が担わせて、音量のバランスとして、Gisを隠し味として使いながら、Eの音をベースとする響きを作ることで、E-durのニュアンスがC-durとの関係でバランスよく響きますね。

さて、調性のせめぎ合いのことですが、この楽章の終わりから5小節目では、管楽器がC-durを基調とし、弦楽器がE-durを基調として、管弦の音量バランスの中でそれらの絶妙なブレンドの響きになっていますが。その弦楽器の中で早くもC-durへの傾斜が始まっています。それは、その小節の5、6拍目のストバイのG-B-As-Gの音列で、E-durになくC-durにあるGの音が出てくることで、C-durへの傾斜が聴こえて来るんですね。

そして、2小節の間に弦楽器がどんどんC-durに傾いていって、終わりから3小節目の頭で管弦すべてがC-durに収束したようにみえます。E-dur とC-durの戦いはC-durの勝ち、という勢いです。が、何と、その小節の後半から最後の小節にかけて、「死んでしまった」はずのE-durが謎の復活を遂げるのです。

この意外さを何とかして聴かせたいものですね。恐らくプロの指揮者でそう感じる人も多いのでしょう。終わりから4小節目の後半のディミヌエンドのところで、楽譜には書いてありませんが、ごくごく控えめなリタルダンドというか、終わりから3小節前の頭を丁寧に入るというか、そういう気配りをしている演奏が多いように思います。

でも、この部分は実に難しい箇所です。というのも、C-durで終わる素振りを見せつつも、そこで終わってはいけなくて、本当の終わりは押しも押されぬE -durだからです。その展開の中で、音楽が停滞してはいけないのです。C-durで終わるというフェイントを聞かせようとし過ぎると、音楽がそこで止まってしまうんですね。

押しも押されぬE-durということについて言えば、最後の和声はもちろんE-durの3和音ですが、E、Gis、Hの中で、C-durにはないGisを強調するようなオーケストレーションになっているように思います。安定したピラミッド型の響きというより、E-durという調性の特徴を強調したような感じでしょうか。

さらに言えば、以上に書いた「調性のせめぎ合い」の箇所では、GとGisのせめぎ合いがとても重要だと思います。それ以外にもあるC-durとE-dur の間でぶつかる音は、そのうちの一方が巧みに避けてあって出てこないのです。(それはFis、Cis、Disのことです。)その意味で、GがC-G-Eの和音の中で果たす役割、GisがE-H-Gisの和音の中で果たす役割がきちんと聞こえるような音程で、GとGisを聞かせる必要がありますね。

by violink | 2004-08-27 08:51 | Interpretation | Comments(0)

<音楽という言葉>メロディーと伴奏型のずらしについて

メロディーが4小節単位で動いているようなときには、伴奏型も4小節単位でメロディーと一緒に動いていくのが普通ですね。ところが、メロディーと伴奏型がどちらも4小節単位でありながら、4小節のかたまりがメロディーと伴奏型とで1小節ずれているように感じられることが、時々ありますね。

そのような作り方は、例えるならば、左右の目で微妙に位置関係のずれた絵を立体めがねを通して見るようなもので、音の世界への立体感を与えているように感じます。

例えば、ブラームスの交響曲第2番の第1楽章の冒頭でしょうか。チェロとコントラバスの最初の小節はD-Cis-Dの音型になっており、この形は1→4小節目までの4小節単位になっていますね。一方、ホルンなどのメロディーが出てくるのは2小節目からで、2→5小節目までの4小節単位ですね。低弦のD-Cis-Dは、単なるアウフタクトではないように感じます。それは、後々、この形が繰り返し出てくるほどの存在感を持っているからですね。

そう感じると、このD-Cis-Dはpというダイナミクスながらも、きちんと聴く人に印象付ける必要があるわけですね。逆に、これに続くAのロングトーンは控えめでいいように思います。そう思うのは、このAの音は、この部分のD-durの3和音の根音ではないからでもあります。

理屈はともかく、このAの音の代わりに前の小節からDのロングトーンが伸ばされていたならば、どのような印象になっていたか、頭の中で鳴らしてみるといいですね。Dの音の方が安定感がありますが、その先に続いていきません。逆に、Aの音の方が不安定でその先に安定を求めたくなります。Aの音の存在がそう感じさせるので、音量はさほど必要ないですね。

蛇足ですが、この楽章の冒頭部分は、44小節目に入るところまで、本当の意味で響きが安定する箇所がありません。様々に転調していますし、それぞれの調性の終止形の3和音が聞こえるようで聞こえない、そういう「じらし」が延々と続いているわけですね。実は44小節目に入ると、今度はバイオリンが新しい動きを始めて展開していってしまいます。

ところで、更に蛇足ですが、この楽章は、4分休符以上の休みがある箇所が2箇所くらいしかなかったと思います。あるパートが終わっても、別のパートが動いている最中ということが随所にあります。この2箇所だけに「静寂」を与えたブラームスの思いはどこにあったのでしょうか。想像するだけでワクワクしてきませんか?
by violink | 2004-08-26 08:55 | Interpretation | Comments(0)

<音楽という言葉>木から森へ、森から木へ

楽譜を読んでいくときに目に入ってくる箇所は、極論すれば、ただ一点です。視線を移していく中でそれが面となり、それから何かを感じ取ることで立体となり、音楽へとつながっていきますね。

作曲家の意図を感じ取る上で、いつも心に留めておかなければいけないと思うこと、それは、全体像、鳥瞰図というものです。

モーツァルトに限らず(例えばGacktでも(笑))、曲全体のストーリー、姿というものの全体がまず見えて、それを楽譜に落としていくという順序で、音楽作品が生み出されていくということです。その追体験ができるだけの才能があれば、とっくに作曲家になっているのでしょうが、そうでなくとも、やはり作曲家の意図という見方をする以上は、全体から攻めていくというアプローチが不可欠ですね。

何がみえるのかはその人次第でしょう。これまでの人生経験(広い意味で、つまり、小さくは生活の一コマから大きくは人の生死に関わる体験まで)の全てが何らかの形で動員されて、その人なりの捉え方につながるのだと思います。そこに、作曲家の意図とは言いつつ、その人なりの解釈が生まれてくるのでしょう。

木から森をみる、森から木を捉える、双方向のアプローチが、その人の音楽に対する感度を高めてくれると思います。
by violink | 2004-08-26 08:54 | Interpretation | Comments(0)

表現における「相対」と「絶対」について

オーケストラの弦分奏などで、「ここはヴィブラートをかけて~」とか「もっと大きく~」とか指示されることがありますね。こういう注意を受けると、「ヴィブラートをかけること」や「大きく弾くこと」自体に注意が向きがちで、言われたからやる、というモードになりがちです。

そもそも表現というものは、「ここ」や「あそこ」の表現がその前後と独立しているということは決してなく、常にその直前や直後との関係で、表現の内容が規定されてくるわけです。ですから、ヴィブラートをかけていない状態からかけている状態へ、とか、音量の小さい状態から大きい状態へ、という変化というか、それらの対比というものが、表現に意味を与えているのですね。

一方で、突然けたたましくなるベルのように、単にベルが鳴り出す前の静寂との対比ということ以上のニュアンスを持つ場合もあります。

要は、前者の表現は「相対」的なものであり、後者の表現は「絶対」的なものといえると思います。そして、「相対」的な表現ということを気にしていくようにすることで、表現の微妙なニュアンスの違いということに目が向きやすくなると思うんですね。

例えば、ヴィブラートの速さや幅ということに関しても、ノン・ヴィブラートの音との対比でヴィブラートを聞かせようとするならば、そのために必要なヴィブラートはごく僅かなもので足りるわけですね。恰も、鏡面のような水面(=そこに太陽がゆがみのない円形で映っているような)を僅かに揺らすことで、水面には今までにはなかった陽光の反射がみられるようになることと似ていますね。

このような、相対的な表現の違いを意識していくことによって、例えば、これまで3階調しかなかったグレーの色が10階調にもなるような、表現の幅が出てくると思います。それは、表現の有無の両方の極端を広げることではなくて、両方の極端に挟まれたレンジの中を有効に活用するというイメージになりますね。

このような捉え方をしつつ、表現の両端のレンジを広げていくように努めることで、表現のパレットには、これまで自分が想像しなかったような色まで含めて、多くの色の絵の具が並んでいくと思いますね。
by violink | 2004-08-23 23:21 | Expression | Comments(0)

<音楽という言葉>音列の中にある「飾り」の要素について

装飾音といえば、通常は、楽譜に小さい音符で示された音のことを思い浮かべて、次の瞬間には、拍の前に出すのか、拍の頭に入れるのか、というタイミングの話に飛んでいってしまうことが多いですね。

しかし、装飾音によってどのような「飾りつけ」がなされているのか、それを知ることが大切ですし、そのためには、装飾音がある状態とない状態とで印象がどのように変わってくるかということに思いを馳せてみるとよいように思います。

また、単に装飾音として書かれた音だけでなく、装飾的な意味を持った音、というところまで話を広げると、普通の大きさで書かれた音符の中にも、多かれ少なかれ「飾りつけ」の役割を担っている音は、かなり多く存在すると感じますね。

私が特にそれを感じるのは、モーツァルトの作品ですね。モーツァルトの作品には、華やかな装飾音が随所に出てきますが、飾りつけの要素は装飾音でない音にも感じることが多いのです。強調のようなニュアンスも飾りの一種として捉えればの話ですが。

要は、基本となる音列の構造があって、それに飾りつけをすることによって、ある種のニュアンスが加わる、という場合のことです。(広く捉えるならば、アクセントやスタッカートもその種の仕掛けですし、同じメロディーをリズムや調性を変えて再登場させたりすることも含めて捉えることができると思います。)

そのような基本構造とそれに加えられた「飾り」という関係をみることができれば、その部分の弾き方についての多くのヒントを得ることができるわけですね。また、そのヒントを音にしていくことで、同じ部分がとても生き生きとしてくるように感じます。好みはあるでしょうが、例えば、アーノンクールの独特(=しかし奇を衒ったものではない)な解釈のもとで演奏されたモーツァルトを聴くときなどに、そのような印象を持つことがありますね。

「飾り」を敏感に捉えるセンスというものは、やはり、音楽の基本構造がみえる、というところから鍛えられてくるものだと思いますので、まず音楽の骨格を掴むようにしていくことが役に立つのだろうと思います。その上で、「飾り」を飾りらしく表現する(=聴いている人に適切に伝わるように演奏する)ための、技術上の工夫というところにつながっていくのでしょうね。

ところで、「強調」のニュアンスは、同じ音型の反復によって表現される場合が相当ありますね。その意味で、反復というものをいずれ取り上げてみたいと思います。
by violink | 2004-08-23 08:58 | Interpretation | Comments(0)

<音楽という言葉>調性の「行間」を読むということ

調性感というと、一つの調性のスケールの中の8つの音の音程感覚を指すこともありますし、あるいは、ある調性と別の調性のイメージの違いのことを指すこともあると思います。これらの「調性感」は、個々の作品に込められたニュアンスを表現していく上で、是非とも意識したい感覚ですが、調性については、更に絶妙なニュアンスが込められていることがありますね。

2つの音がロングトーンで伸ばされているとします。これらの音から調性は分かるものでしょうか。普通は分かりません、というか、複数の可能性がありますね。例えば、それらがEとGだとしましょう。さて、EとGで作られる和音から生まれてくる調性としては、どのようなものがあるでしょうか。

ここで、3つ目の音が加わると調性が一意的に決まってくる、ということに気をつけてみます。そうすると、EとGに、Cが加わればC-dur、Hが加わるとE-moll、Bが加わるとF-durへの転調、CisやAが加わるとD-mollへの転調といった調性が考えられます。ですから、EとGの2音のロングトーンは、こうした様々な展開が予想される一歩手前の状態というわけですね。

調性が決まる一歩手前の状態では、まだ調性が決まっていないと感じられることが大切なのだと、私は思います。これも、先日書いた「初演のときの印象」を大切にすることで、身に着ける(あるいは、保つことが出来る)感覚だと思いますね。
by violink | 2004-08-23 08:57 | Interpretation | Comments(0)

話すことと弾くこと

表現の手段としてみたときに、言葉を話すことと楽器を弾くこととは、いろいろと共通点があるものですね。大雑把に捉えても、例えば、道具の使い方を覚える必要があること、周りの人がその道具を使って表現しているかを観察すること、自分が表現したいことは何かを考えた上で表現すること、といった感じでしょうか。

そう考えると、道具の使い方を覚えるということと、何をどう表現するかを考えるということとは、別のことだということが分かりますね。声を発することができても、それだけで言葉が話せるわけではないんですね。

楽器の場合、道具の使い方を覚えることにエネルギーを注ぐあまり、「話す」練習が疎かになってしまうことが多いように感じることがあります(これは自戒の意味でもあります。)。何をどう表現すれば話せたことになるのか、ということについてのセンスを養うことによって、話していないのに話したつもりになる(=「意味不明」の音を出しても全然気にならない)ということがないようにすることが大切なのだと思います。

たまには楽器を持たないで、こういう練習(→練習というよりは音楽体験と言った方がよいかも知れませんが。)をするように、私も心がけたいと思っています。
by violink | 2004-08-20 17:49 | Expression | Comments(0)

<音楽という言葉>作品に表れた表現=「生」ということについて

音楽作品であれ、絵画であれ、文学作品であれ、およそ芸術作品と言われるものは、ある芸術家の感性の「ルール」に従って、音が、色が、言葉が並べられたものだと言えるでしょうか。そのルールを司っているのが、その生きた芸術家その人であり、まさにその芸術家が生きていることによって、ある並び方を持った音、色、言葉というものが生み出されてくるということでしょうか。

とすれば、そういった芸術作品が表現しようとしていることは、究極的には、個々の表現されたものを通じて、そのような表現を欲した芸術家が一人の人間として過去のある一時点において確かに存在したのだという、「生」の記録なのだと言えるでしょうか。

その昔、まだ現在ほど交通手段も通信手段も記録手段も発達していない頃、芸術作品を見る人々は芸術家その人のことを直接見聞きしたでしょうし、その芸術作品にその芸術家その人を見たに違いないと思うのです。そして、ある芸術家の亡き後は、その芸術作品を見るたびにその芸術家その人を偲んだと思うのです。

幸か不幸か、現代に生きる私たちは、芸術家その人と直接面識がない場合が大半ですし、面識があったとしても芸術家その人を知るというにはほど遠い状態で、芸術作品に表現されたものを音にしようとしています。その作業の中では、上に書いたようなことも含めて、自らの想像力をフル稼働させて補っていかなければならないものが余りにも多いのだと思うのです。そうして、そのような作業を経て、音を通じてその芸術作品を生み出した芸術家その人の「生」というものを伝え得るならば、それこそが芸術の深奥にある本当のテーマに根差した究極の演奏だとは言えないでしょうか。
by violink | 2004-08-20 08:59 | Interpretation | Comments(0)

<音楽という言葉>伴奏型の違いから得られるヒント

伴奏とは映画のBGMのようなもので、BGMが変わると同じ背景で同じ人物が同じせりふを話しても、伝わってくる印象が全く変わってくるように、伴奏型が変わると同じメロディーでも印象が変わってきますね。尤も、音楽の場合はコード進行のルールがありますので、映画のBGMほど変幻自在というわけには行かないと思いますが。

例えば、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲の第1楽章のソロに出てくる第2主題(最初にA-durで2回、次にD-durで2回出てきますね。)です。スコアを見るまでもなく、CDなどで聴くだけでもはっきり分かりますが、例えばA-durの方についてみてみると、1回目に比べて2回目の方が伴奏型が入り組んでおり、用いられる音符の単位も短くなっていますし、2回目ではさらにファゴットによるオブリガートが付いていますね。1回目も2回目も、ソロのメロディーは前半部分は全く同じですが、このように伴奏型が全く違ってきていますから、当然、ソロから受ける印象も変わってくるんですね。

ここで、両者の印象がどのように変わったと捉えるかは、その演奏者のセンスによって変わってくるだろうとは思います。自分なりに印象の違いを感じ、それを表現することが大切なのだと思いますね。私にとっては、1回目より2回目の方により動的な要素を感じますし、あたかも心臓の鼓動が2倍の速さで脈打っているようなイメージになります。

ところで、この部分より少し先の部分では、ソロが曲が盛り上げたあとで、頂点のエネルギー全開の部分をソロがそのまま一人で担当する部分と、オケのテュッティがそのエネルギーを引き継ぐ部分とが出てきますね。そのことについては、またいずれ機会のあるときにメモしてみたいと思います。
by violink | 2004-08-17 09:00 | Interpretation | Comments(0)