作者自身の頭の整理のためのメモです。その時々の思いを綴っていきますので、過去記事と内容の重なりがあるかも知れません。(リンク・フリーです。) Photos in the articles: Courtesy of Tarisio Auctions
by violink
カテゴリ
Introduction
Bowing
Fingering
Vibrato
Shifting
Pizzicato
Tempo
Pitch
Rhythm
Phrasing
Sound
Relaxation
Breath Control
Expression
Practise
Ensemble
Performance
Interpretation
Concert
Instruments
Motivation
My Feeling
Others
Q&A
以前の記事
2017年 01月
2016年 11月
2016年 09月
2015年 03月
2013年 11月
2013年 09月
2012年 09月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 06月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 01月
2008年 02月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 06月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 03月
2005年 02月
2005年 01月
2004年 12月
2004年 11月
2004年 10月
2004年 09月
2004年 08月
2004年 07月
2004年 06月
2004年 05月
2004年 04月
2004年 03月
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2006年 01月 ( 6 )   > この月の画像一覧

<番外編>「原因」と「結果」

原因から結果が生まれる、ということは自明ですが、最近、世の中では、結果を生み出すための「促進剤」のようなものの「開発」が盛んになっていると思います。

例えば、モノを売るときにも、どういうものが売れるのか、から始まって、どう説明すれば売れるのか、となり、何を売るかよりもどう売るかのノウハウの方に、重心が移ってきていると思います。買い手が買いたくなるような説明を散りばめたアドで、世の中は埋め尽くされているとも言えます。

それで売れれば結果オーライですし、売れなければ話にならない。モノを売るということに関しては、それでよいのでしょう。では、演奏ということについてはどうでしょうか。実は、演奏についても、モノを売るのと同じようなアプローチが、最近は増えてきているように思います。演奏効果を狙った味付けの仕方というものがあり、それが演奏の印象を高めるというわけです。

話は多少飛躍しますが、例えば、化学調味料の味に慣れると、天然調味料の味が物足りなく感じると言われます。味の調え方としてどちらが優れているのか、というと、これは好みの問題にもなるわけですが、化学調味料というものが、天然調味料を模倣したものであることを考えれば、味の本質は天然調味料にあると言えるでしょう。

ただし、普段、化学調味料の味に慣れている人が、それをおいしいと感じるかどうかは別問題ですし、天然調味料の方がコストがかかるために、コスト・パフォーマンスを考えてしまうと、化学調味料でいい、ということにもなるでしょう。

そんな中で、音楽表現における必然とは何か、ということが問題になってきます。どこまで、どんな味付けをすることが、ある作曲家の作品の料理の仕方として、適当であるのか。これは、文章では書き切れない深遠なテーマであります。最終的には、自分の「舌」に頼るしかないわけですが、その判断基準として、何を据えるかということが重要ですね。

世の中で数多く売られているCDの中には、宣伝費をかけて売出し中の話題満載の演奏もあれば、数十年間前からのロングセラーもあります。いろいろな演奏を楽しむという意味で、売出し中のCDも楽しく聴けますが、地味ながら売れ続けるロングセラーの方には、音楽表現における必然を見つけるヒントがあるような気がします。

最近、僕が聞き直したCDとして、シェリングvsヘブラーによるベートーヴェンのソナタ全集、カントロフvsルヴィエによるフランクのソナタがあります。何れも、書棚に長く「滞在」しているCDで、折に触れて聴いてはいたのですが、今頃になって、僕に対して訥々と語りかけるようになってきました。

a0009913_18193966.jpg
- Antonio Stradivari 1716 "Soil" -
by violink | 2006-01-31 23:18 | Performance

仮説と検証

楽器を弾くときに、表現ということを掘り下げれば掘り下げるほど、楽譜に書かれている情報と、自分が表現すべきこととの間に大きなギャップがあることに気づきます。「すべて楽譜に書いてあるからそれを表現しさえすればよい」とは、よく言われますし、僕も基本的にそのとおりだと思いますが、それでも、このギャップの存在は明らかだと思います。

同じ文学作品を自分で音読するときと朗読を聴くときとで、込められているニュアンスが相当違うのも、似た例だと思いますね。文章に書かれていることは、ある意味では楽譜よりも単純で、そこには文字と句読点しかありません。そこに何を付け加えて朗読者は朗読するのでしょうか。

それは、作者が文章に込めようとしたニュアンスを自分なりに汲み取り、それを表現しているのでしょう。音楽表現もその点は基本的に同じだと思いますね。

さて、それでは、作曲家の意図をどのように汲み取るか。その意図には、音符単位の細かいものからフレーズ、楽章、曲そのものに至るまでの、場合によっては複数の曲のセットにまで拡大できるような、様々なレベルの意図が存在すると思います。

これを表現しようとすると、様々な表現の可能性の中からスクリーニングを行って、よりよい表現を選び出していくという作業が必要になります。いわば、仮説を立ててそれを検証し、検証結果が好ましいものを選んでいく作業と似ていると思います。

ただし、物理的に可能な表現のオプションをすべて試すには、時間がいくらあっても足りませんし、試した上でスクリーニングを行うためには、判断基準というものが必要ですね。

そこで、作曲家のクセというかキャラクターというか、そういうものを感じ取るセンスが重要になってくると思います。基本的には、漠然とは誰でも持っているセンスだと思いますね。プロコフィエフの作品を聴いて、モーツァルトの作品だと思う人は恐らくいないはずです。

ただし、この二人の作曲家(極端な例示ですが)のキャラクターがどう違うから間違いようがないのでしょうか。それは、比較によるのではなく、それぞれのキャラクターを自分なりにつかんでいて、相手のキャラクターがそれとは違うからだと思います。

作曲家のキャラクターを、小から大へ、大から小へと、自分なりにイメージとして持つようにすることで、先ほど述べた仮設と検証の作業は、驚くほど効率的になります。(というより、このイメージがないと、表現に辿りつきさえしないのです。)

人からもらったメールや手紙を読むとき、何故か、その人の声で読んでいませんか? それに似たことが楽譜を読むときにもあるのだと思います。少なくとも、そのような認識を持って楽譜に向かう、というイメージ作りから始めてみるのもいいと思いますね。
a0009913_20555323.jpg
- Bartolomeo Giuseppe Guarneri 1741 "Vieuxtemps" -
by violink | 2006-01-19 11:28 | Expression

2つの問いかけ

人間には一人一人の異なるキャラクターを持っていますよね。日常生活は、そのキャラクターから出てくる言葉・行動がその人なりの味となって、存在感を作っていると思います。同じ人が楽器を弾くときはどうでしょうか? 楽器を弾くというのは、僕は非日常の行為だと考えています。尤も、日常的に弾く人はいらっしゃると思いますが、行為としては日常的なものではないと思うんですね。

というのは、楽器を弾くときに自分が纏っているキャラクターは、自分自身のそれとは同一ではないからです。第一に、表現手段が自分のものではありません。楽器から音を出しています。第二に、表現する内容が自分からそもそも発せられたものではありません。作曲家の作品です。

こういうわけで、表現しようとするときに、直ちに2つの違和感があるわけですね。自分の中から生まれた感情を自分の声で表現するのに比べると、どうしてもある種の「ぎこちなさ」を感じざるを得ないわけです。

逆に、この「ぎこちなさ」を可視化するというか、感じ取れることが出発点なのだと、僕は考えています。この「ぎこちなさ」の感覚から、「どうやって?」と「何を?」の問いかけが生まれるからで、この問いかけにどう答えるかが、要するに、その人が楽器を通じて行う表現に他ならないわけですね。

これらの2つの問いに如何に誠実に答えようとするか、その態度そのものが、その人の演奏の価値を決めると言っても過言ではないと、僕は思います。そこに、テクニックの巧拙ということでは割り切れない部分が生じます。逆に、歌心だけでも割り切れない部分が厳にあります。

いわゆる巨匠というのは、この両面を極めて、しかも、楽器をいとおしみ、作品を敬愛するレベルに達した人たちを指すのではないでしょうか。僕は、あくまでこの2つの問いかけの延長上に、巨匠というレベルもまた存在すると思います。

今回は、いささか哲学めいてしまいましたが、何か感じ取っていただけるものがあれば、嬉しいですね。
a0009913_20583026.jpg
- Giovanni Battista Rogeri 16?? -
by violink | 2006-01-17 06:02 | Performance

言葉のニュアンスを音に込めたい(続編)

言葉のニュアンスというと、もう一つ、一文の中でのニュアンスの変化ということがありますね。例えば、「彼女の嬉しそうな顔といったら。。。それはもう、なんと言うか。。。」というフレーズを思い浮かべてみます。表情豊かに話そうとすれば、「嬉しそう」とか「それはもう」というパーツのところに思いがこもりますよね。

音楽でも、一つのフレーズの中でのうねりのような、ニュアンスの交替がありますね。これは、この直前のブログに書いたことよりもミクロなことです。それでいながら、一音単位でアクセントをつけるという細かい話よりは、もう少し大づかみな話です。

言い換えれば、細かいニュアンスと大きいニュアンスは、比較的認識されやすいのですが、その中間となると、せいぜい、小さなクレッシェンドやディミヌエンドのことが指摘される程度で、それ以上の多様なニュアンスには入り込まないことが多いと思います。

それはそれで無理もなく、このような中間のニュアンスは、楽譜には書かれていないだけに、どうするかは弾く人のセンス次第というところがあります。また、例えば指揮者などが一々言葉で示すのもぎこちないので、そういう意味でも、弾く人次第ということだと思います。

しかし、言葉のニュアンスからイメージしていくことで、難なくできるアプローチなのだと思います。それで、「準備運動」としては、言葉も、普段何気なく話しているときには出て来ないニュアンスがあるので、これを、意識的にニュアンスを込めるようにしてみることですね。言葉を話すときのニュアンスを多様にする(実際に日常生活の中でそう話すかどうかはともかく。)ことで、音楽と向き合ったときに感じ取れるニュアンスも多様化するのだと、僕は考えています。

表情豊かな演奏、その人なりの表情が、どことなく漂う演奏を、僕も目指しているところです。
a0009913_210234.jpg
- Leandro Bisiach I 19?? -
by violink | 2006-01-12 12:06 | Expression

言葉のニュアンスを音に込めたい

言葉でもそうですが、音楽でも「遠回りに言う」とか「強調する」とかいうニュアンスが込められている場合があります。ただし、どこがそれであるかは、弾く人自身のセンスを頼りに探し出すしかありません。人によって感じ方が違う場合も、当然あるでしょう。

さて、ここで、「遠回しに言う」ことと「強調する」ことは、ある意味で対極にあることで、メッセージとしてどちらが強いのかと言えば、ケースバイケースなのでしょうが、少なくとも表面上は、前者はメッセージが弱く、後者は強いと言うことができるでしょう。

このようなニュアンスを表現しようとするとき、手近なところでは、例えば、ダイナミクスの工夫や、アタックをつけるという工夫が思い付きます。しかし、本当はダイナミクスやアタックというもののねらい自体が重要だと思うんですね。

それは、一音一音のクリアさのコントロールです。左手の指の置き方、右手の弓の弾く位置などを工夫して、いろいろ組み合わせてみると、同じダイナミクスであってもアタックであっても、音のクリアさということに関しては、更にコントロールする余地があることに気づくと思います。

更に言えば、ダイナミクスが表現されている、というように聴き手が感じるのは、実際の音量以上に、音のクリアさの程度を聞き分けているのではないでしょうか。

一つ一つのフレーズから自分なりのイメージをつかんで、それを言葉を話すようなつもりになって弾きさえすれば、この辺のことは理解しやすいと思いますね。

a0009913_2175321.jpg
- Giuseppe Pedrazzini 1911 -
by violink | 2006-01-11 07:53 | Expression

弓の返しのイメージ作り

バイオリンの弾き方というのは、ある意味でシンプルですので、ボーイングにしてもポジション移動にしても、そのための右手なり左手の動きには、一応の約束事はあるにしても、かなりの部分は弾く人それぞれの工夫の積み重ねの中で習得されていくものだと思います。

それは、言い換えれば、ボーイングとかポジション移動という手の動きそのものから一歩離れて、自分なりにイメージを作ってみるというプロセスの積み重ねだと、僕は考えています。そのときに、どのようなイメージを想定するかと言うと、それは、バイオリンを弾くとき以外の手の動きです。右手にしても左手にしても、バイオリン特有の動きはあるにしても、結局、両手の可動範囲の中でしか動きませんので、バイオリンを弾くとき以外の手の動きから、イメージを作ってみることは役に立つことがあります。

さて、弓の返しのイメージですが、「頭をつけない」とか「圧力をかけない」とか、「弓を返す前後で同じスピードで弾く」とか、まあ、注意点を言葉にすれば、いろいろあるわけですが、今回はちょっと趣向を変えて、アップは「弓先で何かを突き刺すイメージ」、ダウンは「弓元で何かを押し込むイメージ」として捉えてみたいと思います。

このようなイメージを持つメリットは、要は、頭をつけるとか圧力をかけるということを、意識の外に追いやることができること、及び、「突き刺す」スピード、「押し込む」スピードということに注意が向く点にあると思います。更に言えば、アップで「突き刺す」練習は、弓を弦に置かずに、弓先の存在感を右手の中指できちんと感じるようにする(=「突き刺す」方向が弓の延長線上でブレない。)ことが大切だと思います。

これは一つの例でしかありませんが、そのように、手の動きをバイオリンから離れてイメージしてみることは、練習の中での気分転換にもなりますし、やってみる価値があると思いますね。
by violink | 2006-01-10 22:32 | Bowing