作者自身の頭の整理のためのメモです。その時々の思いを綴っていきますので、過去記事と内容の重なりがあるかも知れません。(リンク・フリーです。) Photos in the articles: Courtesy of Tarisio Auctions
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本から学ぶこと

バイオリンの奏法について書かれた本は結構ありますが、さらに音楽作りまで踏み込んで書いたものには、僕自身は、ほとんどお目にかかったことがありません。皆さんは如何でしょうか?

ソロ用の楽譜の中には、プロの演奏家の注釈付きのものもありますが、これも、その曲のその箇所をどう弾くか、という具体的なアドバイスで、これはこれで大変役に立つのですが、一方で、何故そうするのかについては、自分で理解を深めていくしかないと思います。

ところが、ピアノ関連の書籍となると事情は一変し、奏法から音作り、響き作り、音楽作りまで書かれた本が結構あるようです。やはり、ピアノはピアノだけで音楽作りが完結する作品が大半であるのに対し、バイオリンの場合は、無伴奏の作品は例外として、大半の作品は伴奏なり合奏なりの形になって初めて音楽が完結する、ということと関係があるのでしょうか。

いずれにせよ、楽器の違いはあるので、メカニックに関する話は直接参考にはなりませんが、音楽作りに関する話は結構参考になると感じています。僕なりに掴めたことを、いずれ、このブログでも書き込んでいこうかと思っています。
# by violink | 2006-02-24 08:15 | Practise | Comments(0)

符点のリズムのワナ

符点のリズムとは、今さらですが、3:1のリズムを指しています。符点8分音符+16分音符、符点4分音符+8分音符、などが代表例ですね。

この符点のリズムは、日本人が不得意と言われるリズムで、甘くなりがちと言われます。実は、この「言われる」が曲者で、甘くならないように注意を払いすぎる傾向があります。僕自身の経験上(オーケストラなど)も、符点のリズムが3:1になっていないことは日常茶飯事ですが、これが甘すぎると注意されますが、厳し目になっていても注意されないことが多かったと思います。

そういうわけで、符点のリズムは、総じて厳し目(つまり、3.2:0.8とか。)になりがちです。もちろん、多少厳し目にして耳には丁度良く聞こえるという面もあるようですが、それは、3:1がきちんと出来ることが前提のお話だと思いますので、まずは、3:1の割り方できちんとできることが大切だと思うんですね。

特に、メロディーを歌うときなど、ルバートをかけていてテンポが微妙に伸縮するような場合に、そのテンポに応じて3:1をきちんとやる(やっているように聞こえさせる)というのは、結構難しいですね。疎かになりやすいです。

それから、ゆっくりしたテンポでやるときですね。同じメロディーをどんどんテンポを落としていくと分かりますが、遅いテンポでは、3:1が厳し目になりやすいと思います。

恐らく、作曲家は理由があって3:1のリズムで書いたはずなので、まずはそれを正確にやるところからスタートする必要があるのだと思いますね。その上で、解釈上、厳し目にやるということはあるのでしょうね。
# by violink | 2006-02-23 20:12 | Rhythm | Comments(2)

「お気に入りの最近の演奏家は誰ですか?」

このブログを読んでいただいている方から、このようなご質問がありましたので、僕なりに答えてみたいと思います。

まず最初に、僕がCDをよく聴いている演奏家は、クライスラー、シェリング、グリュミオー、ハイフェッツ、オイストラフで、それ以外は余り聴かないですね。理由を聞かれると上手く答えられないのですが、だいたいそういう傾向です。最近の演奏家については、何しろ次から次といろいろな人が出てくるので、好き嫌いということでなく、次の①、②、③の何れかの動機から、何か機会があれば聴くという感じです。

さて、僕がCDを買うときの動機としては、①名器の音色を聴きたい、②曲を知りたい、③どう弾くか聴きたい、のどれかですね。①は、製作者の名前(場合によっては製作年代も)が分かっていて、音を聴いてみたいと思うときです。②はそもそも曲を知らないが、自分が出る室内楽コンサートでやる曲などで、曲自体を知る必要がある場合です。この場合は、例えば、ブラームスのソナタであれば3曲がセットになっているものを買うことが多いですね。誰が弾いているかは、それほどこだわりません。③は、自分がソロを弾くとした場合の解釈の仕方についてヒントが欲しいときですね。

③については、1枚のCDをお手本にしようとしても、お手本に匹敵する演奏ができる可能性は皆無ですので、1枚に絞らず、2、3枚を聴き比べています。演奏者は入手可能なものの中から選びますが、新鮮さを求めて、全く聞いたことのない人のをわざわざ選ぶこともあります。聴きながらその演奏スタイルを自分がどう感じるかを大切にしています。弾いている人の意図が何か感じられれば聴く意味があったと思いますし、意図が分からなければ、その演奏の意味を感じる「センサー」が自分にはないのだと割り切っています。

いずれにしても、③の場合は、作品の中に自分の見落とした「宝石」がないか、と思って聴いています。「宝石」が見つかると嬉しいですね。音楽は奥が深いと感じますし、練習にも気合いが入りますね。そういう「宝石」のありかを教えてくれたCDは、大抵、永久保存版にしています。(逆に、そうでないCDは、結構すぐにブックオフへと旅立っていきます。(笑))

答になっていない部分もあると思いますが、今回はこれで、一応、ご質問への回答ということにしたいと思います。
# by violink | 2006-02-23 18:11 | Q&A | Comments(1)

行き届かない演奏について

行き届いている、という表現がありますね。痒いところに手が届く、という表現もあります。いずれも、大雑把にしていては見逃すこと、たどり着かないところにきちんと気配りができているとか、手当てがされているとか、そのような意味だと思います。

演奏ということに関しても、行き届いている、痒いところに手が届いている、という感覚があると、僕は感じています。最近のケースですと、バイオリンではないのですが、ショパンのワルツ集の演奏です。有名な曲が多いので、ご存知の方も多いと思いますが、このワルツ集では、ピアノの右手か左手のどちらかがメロディー、どちらかが伴奏(ワルツの3拍子)というように、例外なく役割分担がされています。

ワルツなので、この3拍子が大切で、しかも気品のある表情を持たせるには、この3拍子の伴奏型をどう流していくかがポイント、つまり、メロディーが何をやってもこの3拍子の弾き方如何で引き立ちもすれば台無しにもなる、と僕は思っているのですが、耳で聞く印象としては、当然、メロディーに気持ちが向きやすいので、例えば、CDなどから耳写しで弾いたりすると、練習の中心はメロディーに行ってしまうことにもなりかねません。

しかし、実は、淡々とした3拍子を味わい深く流していくことが如何に難しいことか。そして、メロディーはこの3拍子に規定されていて、その枠内でしか歌いようがないのですから、やはり、大抵は左手で弾くこの3拍子は、練習も手間がかかると思うんですね。昨日のメモで書いたルバートということも絡んできますしね。

この例では、ワルツの3拍子が淡々と、しかも表情豊かにメロディーの下支えをしている演奏こそが行き届いた演奏だと、僕は感じます。残念ながら、僕が最近聴いた演奏は、メロディーへの感情移入が過ぎて、ワルツの3拍子が不整脈のような不安定さを醸していました。それでも、何となくそれらしい雰囲気なのですが、この「らしさ」は「らしさ」どまりになってしまうと思います。

アマチュアですから、弾いている本人が楽しければそれでよい、ということではもちろんあるので、批評などはしませんが、弾く人間である自分としては、反面教師として捉えるべきケースかな、と思った次第です。
# by violink | 2006-02-22 02:02 | Practise | Comments(1)

自然なルバートとは

メロディーに表情をつけようとするとき、ルバートをしてテンポを多少伸縮させることがありますね。それによって、演奏にある表情が加わるのは確かですが、その表情が加わることによって、もとの表情が損なわれてしまっては、本末転倒だと思っています。

もとの表情とは、端的には、メロディーのもともとのリズムのことです。ルバートが上手く行っている演奏は、ルバート後の演奏を聞いても、もともとのリズムが分かると思います。それが分からなくなっているとすれば、そのルバートによってメロディーのもともとのリズムの関係が崩れてしまっているのだと思います。

ただし、これはルバートはほどほどに、ということを言っているわけではありません。やりすぎと同様、やらなさすぎもリズムが歪んで聞こえるものです。僕が最近感じたケースは、ベルリオーズの幻想交響曲の第2楽章の主題です。アルファベットの羅列で読みにくくて済みませんが、

CisH, AGisAHCisDEFFis, GisAGisHAGisFis, FisDCisCisHHAGisA, HAisHEDisECisDCisH, AGisAHCisDEDisEFisGGis, [AGisACisHAGisFis], FisDCisCisHHAGisA, HAisHEDisEA (臨時記号が多少違っているかも知れません。)

この[ ]内は多少テンポが緩んでいきますが、この緩み方が中途半端だと、次のFisから始まるフレーズのインパクトが小さくなってしまいます。このインパクトをきちんと出すためには、ある程度しっかりと緩めて丁度いい、ということが、この箇所についてはあると思います。尤も、この形は後でも出てきて、そのときにより大きなインパクトを持たせようとすれば、ここは比較的穏やかなインパクトに留めるのがよいとは思いますが。(それにしても、アルファベットは読みにくいですね。すみません。どこのことを書いたか、お分かりになるでしょうか。。。)

要は、ルバートは、メロディーがもともと持っているリズム関係を生かした形でルバートすることで、表現として生きてくるということが言いたかったんですね。
# by violink | 2006-02-21 18:51 | Expression | Comments(0)

VIOTTI(1709)

タイトルを見ただけで、これが何を意味するかが分かる方は、相当な楽器マニアと言えます。

これは、かの有名なストラディバリ (Antonio Stradivari(1644-1737))が作ったバイオリンの中でも超一流とみなされているものの一つで、弦楽器に関する英文雑誌 the Strad の3月号で特集しているものです。往年の巨匠であるVIOTTIが使用したいくつかのストラドの中でも、彼が最も気に入って死ぬまで手放さなかった楽器として紹介されています。

この雑誌には、VIOTTIの実物大のポスターが付いているのですが、これが圧巻で、見ているだけでため息が出てきます。尤も、色合いとアーチの感じは写真からだけでは分からないのですが、それでも、十分なインパクトがあります。

一言で言えば、あらゆるパーツがクリアなのですね。巨匠の最盛期の作品であって、しかも、製作された当時からの保存状態がよいことも関係していると思います。

言葉を尽くして語りたいところですが、こと楽器に関しては、百読は一見に如かず、ということで、簡単ですが、この辺で。(写真を掲載したかったのですが、copyright の問題をクリアしていないので、今回は見送りたいと思います。)
# by violink | 2006-02-21 06:44 | Instruments | Comments(2)

「一流」のウチとソト

自分が気になる分野で一流と言われる人のことは、誰でも無関心ではいられないと思いますし、出来れば「あやかりたい」と思うのも人情だと思います。最近では、ブログなどで、一流ともてはやされる人が発信するメッセージは、ぐっと身近になってきたと思いますので、彼らが一流になったプロセスを辿ることも、以前よりは遥かに容易になってきたと言えます。

もちろん、ここで言っている一流とは、似非の一流ではなく、本物の一流のことです。

「自分もああ弾けたらいいな」と思うことがあります。でも、何に憧れているのか、実は定まっていないことも多いと思います。その人の演奏そのものかも知れません。その人がその演奏をして周囲の人に注目されている状況かも知れません。その人が演奏に向かう姿勢(と自分が感じること)かも知れません。そして、こういうものを「よいもの」として認識している自分自身に陶酔しているのかも知れません。

一流を意識する背景には、多少なりとも、自分が気になる分野、特に、自分が実際に手がけている分野であれば、現状の自分のレベルより向上していくきっかけが欲しい、という思いがあると思います。ところが、上に書いたような様々な思いは、自分がそのきっかけを掴むことを妨げるように思います。

それは、本当の一流の人が見ているであろう世界はもっと深いところから始まっているからだと僕は思っています。深いところに根を生やして、それが土中の養分を吸って成長し、太い茎から出た葉が太陽の日を浴びて、綺麗な花を咲かせる植物のように。その植物が生きていくために必要なプロセスは、外からは見えない土中から始まり、また、土中で淡々と続けられているのと同じように。

外からは見ることができない内面が充実していることが、自分の音楽世界の次元を高めていくことの背景としてあるということを、改めて実感する今日この頃です。
# by violink | 2006-02-21 06:30 | Motivation | Comments(0)

表現と感情

音楽でも絵画でも文章でも、およそ表現というものの裏には感情があると思います。もちろん再現芸術と言われる音楽(文章の朗読も同じカテゴリーですかね。)と絵画とは一緒にはならないでしょうが、およそ芸術家が表現したいと思うような何かがなければ、表現は生まれないものだと思います。

そこで、再現芸術たる音楽を演奏する側としては、作曲家が何を表現したかったのか、ということを模索することになります。本来、作曲家が表現したことは一つですが、演奏家によって解釈が違うということは、往々にしてありますし、その結果、いろいろな演奏スタイルが現実に存在します。

どれが正しいか、どれが間違っているか、ということを考えるほど、僕の手許には手がかりがありませんし、また、実際には正誤の問題ではないとも思います。が、音楽の場合、表現手段が一人歩きして、不可解な状況が生まれやすいと感じます。ヴィブラート、ルバート、アクセントなどなど、それを使うことで何かを表現したような錯覚に陥りやすいものをどう使いこなすか。このことに常に気を付ける必要があると感じています。

一人の人間として持ち得る感情のバリエーションは、性格や人生経験など、個人個人によって違う部分も大きいと思いますし、芸術家というのは凡人より遙かに多彩な感情のバリエーションを持っているのかも知れません。

それを全て汲み取ることは無理かもしれませんが、少なくとも、自分自身が、自らの人生経験から会得した感情のバリエーションの中で投影してみることはできると思うのですね。そういう作業を通じて、表現と感情のリンクをしっかりと保つことが、とても大切ではないかと思っています。
# by violink | 2006-02-20 18:00 | Performance | Comments(0)

上達するためのマインド

自分が何をやるにしても、大抵はその道に長けた人が存在し、いやが応にもこれを意識せざるを得ない状況に追い込まれます。あるいは、井の中の蛙として、こういう自分より優れた人の存在に目を向けない結果として、成長の機会を逸するか、どちらかだと思います。

もちろん、自分より優れた人を意識することが、直ちに成長の機会になるわけではなく、自分より優れた人が存在するという事実を、自分の中でどう解釈するかにかかっているという言い方もできると思います。

よく言われることに、ポジティブ・シンキングということがあります。否定的にではなく肯定的に考えよう、と一言で言えばそういうことでしょうが、僕は、多少違う捉え方をしています。ポジティブ・シンキングは方法論ではなく結果だと思うんですね。方法論として捉えてしまうと、そのことをやる意味の有無を検証するステップが抜け落ちてしまうと思うのです。

バイオリンを少しでも上手く弾けるようになるようにする、ということに限らず、およそ自分にとって何かをすることの意味、それ自体を自分自身で明確に認識できればできるほど、そのためには何をすればよいのか、ということに目が向きますし、その出発点として現在の自分のレベルを冷静に見極める気にもなります。それで、結果として、自然にポジティブ・シンキングができると思うのですね。

より大切なものはモティベーションで、それは、自分にとってそれをやる意味を見出せるかどうかにかかっていると思います。極端な場合、自分が何となくやりたいと思うことであっても、自分がそれをする意味がない、ということもあるでしょう。意味を見出せさえすれば、上手くいかないときは方法論を冷静に検証できますし、本当の意味で、意味を失ったと思えば、スパッとやめることもできるのだと思います。

そして何よりも、自分の中の深いところで意味を見出せるものを追求していくことは、充実感を伴う楽しさがあります。涸れることのない泉のように探究心が湧き出てくる対象に一度であったならば、突き詰まるところまで行ってみたいな、と。

今回は、最近、言葉として定着しつつあるコーチングにも関連する話になりましたが、誰に対して話しているのかと言えば、他でもない僕自身に対して語っているのですね。
# by violink | 2006-02-19 11:35 | Motivation | Comments(0)

メカニックの練習に関して

アルフレッド・コルトーとは、言わずと知れたフランスの往年のピアノの名手です。

バイオリン弾きがなぜこのピアニストを引き合いに出したかというと、コルトー版と呼ばれるものの存在と関係があります。コルトー版とは、このピアニストが教育者としての見地から、作品の持つイメージを示しながら、弾きにくい箇所の具体的な練習方法を提示している楽譜で、80冊以上もあるそうです。

バイオリンで参考にする場合、作品の持つイメージのところは別として、弾きにくい箇所の練習方法は、とても示唆に富んでいると思います。基本的には、指同士の独立性を高めるための練習用に、その箇所にある音型をベースとしたヴァリエーションを示したものですが、これがとても参考になるんですね。

ピアノという楽器は、ある意味でバイオリン以上にメカニックの練習が必要な楽器と言えると思います。バイオリンでは、右手で一弓で弾いている間に左手の指を落としていけば-落とすタイミングさえ上手くいけば-とりあえず、均等な音量で複数の音をつなげることができますが、ピアノでは、一音一音、鍵盤に落とす指の力が均等でないといけませんよね。その点で、それぞれの指が独立して均等な力で弾けるようにするトレーニングは、バイオリン以上に必要だと思います。

コルトーがそれぞれの音型をブレイクダウンするやり方は、その音型を構成するいくつかの要素に分解して、その要素ごとにバリエーションを提示するという、とても合理的なものになっています。自分が何を練習しているのか、ということが、どの指とどの指の独立性を鍛えているのか、というレベルで明確になっているからです。

たまたま僕が目にしたのは、ショパンの即興曲のものです。ちなみに、これを含めて、コルトー版の一部は全音から日本語版が出ています。
# by violink | 2006-02-19 05:29 | Practise | Comments(0)

プロとアマチュアの違い

プロとアマチュアの違いは、様々な場で議論されているトピックであり、また、果たして備論する意味があるのかどうか怪しいトピックでもありますが、今回は、僕なりの見方を書いてみたいと思います。

要は、プロとアマチュアの区別には意味がないということです。強いて言えば、演奏によって生計を立てようと考える人と、生計が立つほどの収入が演奏によって得られる人はプロ、そうでない人はアマチュアということくらいでしょうか。この考え方に立てば、下手なプロも、上手なアマチュアもいてよいですし、上手なアマチュアが下手なプロよりも上手、ということもあり得ます。

以上はプロとアマチュアの対比というアプローチですが、ここで見方を変えて、プロはどうあるべきか、アマチュアはどうあるべきかということを、それぞれ別個に考えてみたいと思います。

プロは、音楽作品の演奏ということに関して、妥協なく高いレベルを目指すべきだと思います。一方、アマチュアは、音楽作品の演奏を通じて、個人的に何らかの満足が得られるのであれば、それでよいですし、逆に、何らかの満足が得られるべきと思います。

さて、ここで、妥協なく高いレベルについてですが、これが曲者で、人それぞれの資質(身体的条件、音感などを含めて)や、音楽というものの捉え方・ビジョンによって、目指すレベルは大いに違ってくるでしょうが、その人なりの妥協ないレベルを目指すべきなのだと思います。

質の高い演奏というのは、巨匠の天上の音楽は別として、単に人を感動させるというものでもなく、音楽作品を完成させていくための筋道が透けて見えるような部分があると、僕は考えています。テクニックの問題、表現の問題、聴かせ方の問題、自分のコンディションなどなど、一回の本番を迎えるために、本来クリアすべき要素は、この順番に解決されていくものと思いますが、そのプロセスをきちんとこなして目の前に出てきた演奏には、感動するしない、といった部分以前に、敬意に値すると僕は思っています。

実は、最近ひょんなことから聴く機会のあったアマチュアのピアニストの演奏に、僕は実際にそのような思いを抱きました。そして、僕自身が取り組んでいるバイオリンの道の遙か遠くにあるべき道しるべを得たような感想を持ちました。

いささか回りくどくなってしまいましたが、要は、プロとアマチュアという切り方ではなくて、音楽に向かう姿勢という切り方で人の演奏を眺めることで、曲がりなりにも音楽に関わっている僕自身のあるべき姿勢というところに、最終的には立ち戻ってくるのだな、ということを言いたかったのです。
# by violink | 2006-02-17 18:01 | Others | Comments(0)

楽譜の背後にあるもの

音楽表現ということを考えるとき、僕たちは、楽譜に書かれたことを忠実に再現しようとしますね。ところが、実は僕たちが目にする楽譜は、一定の標準化されたルールにしたがって書かれているものであり、作曲家自身が書きたいことを書き尽くしているものではありません。どうしてもある種の情報が欠落してしいるために、解釈ということが必要になるのだと思います。

ある種の情報とは何でしょうか。例えば、肉筆の手紙を思い起こしてみましょう。万年筆で書かれた肉筆の手紙、、、そこには、力の入り方による濃淡があるでしょう。涙のにじんだ跡もあるかも知れません。はたまた、小雨の中で走り書きをしたと思えるような、雨粒の跡があるかも知れません。文字情報以外の様々な手がかりが、その手紙が書かれたときの状況を示唆しますね。

手紙のような、物理的に判別可能なものであるかどうかはともかくとして、楽譜の場合にも、背後にある作曲家の思いというものを推し量ることが、楽譜に書かれたメッセージを読み取る上で、とても大切になってくると思うんですね。

ベートーヴェンの交響曲第4番の第1楽章。B-durに転調した直後で、フルートがメロディーを吹いていますね。DBFEsDFBAGEsCBAFEsCBという音型です。続いて、バイオリンがこのメロディーを奏でますが、この奏で方は凄いですね。全ての音を独立させて、しかも、一音一音ティンパニを叩かせています。楽譜にどう書いているかはともかく、これは、すさまじい強調であるわけですね。

とすれば、ここの弾き方として、まずは「強調」というニュアンスが表現されていることが必要であり、そのニュアンスを表現するための指示が楽譜に書かれているというように考えられないでしょうか。

「楽譜に書かれているからこう弾く」ではなくて、「こういう効果を求めたから楽譜にこう書かれていて、こう弾けばその効果が表現できる」というアプローチが、自分が出す音の中で作曲家の意図を表現していくためには必要なのだと思いますね。
# by violink | 2006-02-16 07:16 | Interpretation | Comments(1)

アルペジオの課題

アルペジオとは分散和音のことで、これが曲の中に出てくるときは、多くの場合は、伴奏としての和音をくずしたものですが、伴奏としてだけでなくメロディーを含んでいる場合もあります。そして、後者の場合に、メロディーの音が他の3音から際立って聞こえるようにすることは、G線またはE線上の音は別として、なかなか難しいものです。

メロディーの音だけ他の3つの音よりも大きな音で弾く、という形でこれを解決しようとすると、直ちにボーイングの基本、つまり弾く位置、速さ、圧力をある一音だけ他の3つの音と変えることが難しいために、解決不能になってしまいます。

そこで、音量で差をつける、というアプローチから一旦離れて、音量以外の方法で一音を際立たせることができないか、と考えてみます。①その音の頭をよりクリアに出す、②その音を気持ち長めに弾く、ということが直ちに思い浮かぶと思います。これ以外にもあるかも知れませんが、一応、2つ思い付いたということで、次のステップに進んでみます。

次のステップとは、これらの2つのことが実際にできるようにするための練習方法です。最終的にどちらの方法が適切であるかは、やってみないと分かりません。聞こえ方一つにかかっています。どちらも技術的に可能だということならば、最後は、聞き比べで決めることになると思いますね。

さて、そこで練習方法ですが、まず①については、アルペジオの4つの音を、その一音の前までの音と、その一音を含んだ残りの音とに分解し、明らかに2つの動きに分けた上で、2つ目の音の塊の最初にアクセントをつけるようなつもりでアルペジオを弾くという練習が考えられます。弓の角度を変えるスピードを、アクセントをつける直前だけ速めるのがポイントで、これが無理なくできるかどうかをチェックする必要がありますね。

次に②については、その一音の長さを他の音の例えば2倍の音価と設定して、徐々にこの音の長さを短くしていって、最終的には、4つの音がほぼ同じ長さに聞こえるところまで持っていく方法ですね。

上記の例では、①と②について、このような練習をしてみて、技術的に可能ということであれば、最終的には弾き比べてみて、どちらがその箇所の聞こえ方として適しているかを見極めるということになるでしょう。どちらも一音が際立つ点は共通ですが、際立ち方が違うので、当然、聞こえ方が違ってくるからですね。

久しぶりに、純粋にテクニカルな話題になりました。
# by violink | 2006-02-15 07:30 | Bowing | Comments(2)

和声と伴奏型からのインスピレーション

引き続き、チャイコフスキーのコンチェルト第一楽章から、今度は、第二主題を取り上げてみたいと思います。AGis-HAGisHA-HBCisHBCisH...という特徴的なメロディーですね。自分がこの曲を知らないと仮定して、このソロだけを取り出して弾いてみるとします。規則的な形をしていて、ある意味で単純な音型ですね。

さて、このメロディーに、自分なりに伴奏をつけてみようと思い立ったとします。どんな和音を用いて、どんな楽器で、どんな形の伴奏をつけるでしょうか。実際につけてみる必要はありません。つけてみたつもりになってから、実際の作品を聴いてみます。このような思考プロセスを辿ることで、漫然と聞いていたのでは見えてこないものが、随分いろいろとみえてくるものです。

この第二主題をソロは2回弾いていて、2回目はその先に発展していきますね。1回目と2回目の伴奏型の違いをよく聴いてみましょう。いろいろな違いがあります。さすが大作曲家だけあって、自分などには想像もしなかったような和声と伴奏型が、1回目、2回目とも繰り広げられています。

自分の想像力を研ぎ澄まして、これらの和声と伴奏型を聴くことに集中する中で、おそらく、こうした和声と伴奏型に支えられているソロのメロディーをどのように弾きたいかという、イメージが出てくると思います。そのイメージをどんどん具体化し、さらに、演奏方法という現実の話に落とし込んでいくという作業が、今回の話に関しての「練習」と言えると思います。

この「練習」は、楽器がなくてもCDがなくても、頭の中に曲が入っていさえすれば、どこでも出来ることですので、サラリーマンの平日の通勤時の練習としても実行可能ですね。この「練習」をするだけでも、自分が目指したい表現の形というものが、ずっと具体的になってくると思いますね。
# by violink | 2006-02-15 06:50 | Interpretation | Comments(3)

作品を知るための「遊び」(その2)

バイオリンを弾く人なら、恐らくほとんどの人が知っているチャイコフスキーの協奏曲。第一楽章の最初のソロは、オーケストラの伴奏がありません。ここに貴方が1つだけ音を選んで、木管楽器にロング・トーンを吹かせるとします。さて、どの音を選びますか?

ポイントは、この裸のソロ全体にわたって、この音のロングトーンを延ばしている、というところにあります。

--------------

さて、数日の間に、Bernardoさんから2つのコメントがありました。僕が上の問いかけをするときに想定していた回答は、A-durのセブンスのどれかだろうということでした。その意味で、Bernardoさんの答は、想定の範囲内だったと言えます。

実は、僕は最初はGを選び、Aに選び直しました。Gを選んだ理由は、A-durからD-durにつながるためには、ブリッジとしてA-durのセブンスを持ってくるのが自然で、チャイコフスキーもこの裸のソロにこの和音を添えています。そして、この和音を特徴付ける音はGです。ただし、根音がAなので、半音違いのGisだけを鳴らすのは、どうも座りが悪いんですね。

それに、ソロの最初からGを鳴らすのは具合が悪い。というのは、僕なりに2つ理由があって、まず、ソロの弾き始めのA-B-Aは、その直前のtuttiの動きを引き継いでいるので、これを妨げたくないんですね。それから、ソロにA-durのセブンスを弾かせてあげたい。それが出てくる前に「種明かし」をしてしまうのは、具合が悪いというわけです。それで、無難なAに考え直しました。

さて、僕がなぜ今回の問いかけをしたのかというと、オケの伴奏がないソロだからこそ、自分の中で持っているべき和音を鳴らしながら弾かないといけない箇所だと思ったからで、A-durのセブンスがその和音に当たるわけですが、具体的に和音をイメージすることで、この一連のメロディーを歌うときに、どの音が重要でどの音がそうでないか、すなわち、どの音で歌い込むのは自然で、どの音はそうでないか、ということを考えるヒントになると思ったからですね。

ところで、BernardoさんのB-H-C-Cisというのは、とても面白いアイディアだと思いました。

ちなみに、僕だったら、これは木管楽器ではなくソロに弾かせます。そして、音としてはBは省略します。その方が、次のD-durを予感させやすいと思うからです。そして、ソロの終わりのtuttiに入る直前の、H-A-GのAを鳴らしながら一オクターブ下のAからH、Cと一音ずつ独立させて弾き、Gに移ってからCisを弾くようにすると、うまくtuttiにつながりそうですね。

下の方で動く4つの音は、短めにして、tuttiの直前はGだけが残るようにしたいですね。重音でベッタリ弾いてしまうと、どうも重たくて。

裸のソロは、全体がカデンツァっぽいので、こういう遊びもありですかね。(笑)

以上、今回の「遊び」のまとめでした。

PS ブログの原稿を書き直したときに、Bernardoさんのコメントも消えてしまいました。ごめんなさい。。。
# by violink | 2006-02-12 12:24 | Interpretation | Comments(4)

作品を知るための「遊び」(続編)

昨日のお話の続きです。ベートーヴェンのソナタ第5番の第1楽章の冒頭のメロディーについて、昨日書いたような「遊び」をしてみて、僕が気づいたことは、次のようなことです。

まず、このメロディー(最初の11小節)は、全体が大きな音階になっているということです。つまり、AGFEDCBAGFEDCBAGFEDCBAGFまで下行音階で、最後の2小節だけは、(Fis)GAB(H)CDEFという上行音階になっています。こういう単純な構造の中で、ベートーヴェンはメロディーの色合いを出すために、どのような工夫をしているでしょうか?

まず、最初のA-[GFEF]GFEDですが、この[ ]内の動きが装飾音符のように働いていますね。その次のGFEDは次のCにつながる動きですね。その意味で、この一連の音の動きの推進力は後半にあるように思います。

続く、C-[DCHC]DCBAの前半は同じく装飾音符的で、後半は次のGFにつながる動きです。そして、その先にある[EF^FD]CB[AB^BG]FEの動きは、[  ]内の音は、音の順序が、FEDとかBAGではなくて入れ替わっていますが、このことで、FDからd-mollの響き、BGからg-mollの響きが浮かび上がっていますね。尤も、この箇所はピアノが小節の頭からこれらの分散和音を弾いていますので、逆に[EF^FD]のEや[AB^BG]のAが装飾音符的な役目を果たしているように聞こえますね。

さらに、少し飛ばした先のCBAGFの動きについては、f-durの響きで一貫させてもおかしくないところを、f-durからd-mollの響きに一瞬ひねってから、g-dur、c-durのセブンスコードを経てf-durに戻す動きになっています。ここでd-mollが登場せずにf-durの響きで一貫されていたとすると、その後で戻ってくるf-durのインパクトが弱くなりますね。というか、つまらなくなりますね。

とりあえず、冒頭の11小節については、こんなことを感じたんですね。
# by violink | 2006-02-09 06:05 | Interpretation | Comments(0)

作品を知るための「遊び」

音楽作品の作曲のプロセスを僕たちが知ることは、まずありませんが、出来上がった作品のもつニュアンスを汲み取る上で、作曲家が行っていたであろう推敲のプロセスに類似した「遊び」を行うことは、役に立つと考えています。

例えば、ベートーヴェンのソナタ第5番第1楽章の冒頭。A-GFEFGFED,C-DCHCDCBA,G-FCF^FD,C-Bという有名な4小節のメロディーがありますね。このうち最初の2小節の3、4拍目の音の動きが逆であったら、どんなメロディーになっていたでしょう。

A-GFEDEDCD,C-DCBABAGAと、例えばこうなるわけですね。もとの節とはどう違っているでしょうか。1小節目は、Fの音の存在感が薄れて、代わりにDの音の存在感が大きくなっています。2小節目は、BとAの音が目立ち、また、もとの2小節目には出てこないGが登場します。

この結果、これらの2つのメロディーの聞こえ方は、全く異なったものになっています。この作業をすることによって、もとのメロディーが持つ響きについて何らかの示唆が得られないでしょうか。

更に言えば、この4小節では、ピアノの左手は、F^FDGと動いています。各小節毎の調性上、根音になる音をなぞっています。もとのメロディーは、主として、この根音の上に作られる三和音と溶け合う音で作られていますが、もう一つのメロディーでは、この三和音に関係のない音の存在感が大きくなっています。

こういう「遊び」を敢えてやってみると、もとのメロディーの必然のような部分がみえるとは思いませんか。こうでなくてはならない、という作曲家の意思が伝わってくるような気がするんですね。もちろん、ベートーヴェン自身が、この粗製のメロディーを推敲した可能性は低いと思いますが、もとのメロディーの持つ意味合いを照らす一助にはなると思うんですね。

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- Etienne Pajeot -
# by violink | 2006-02-08 18:25 | Interpretation | Comments(3)

和音のパズル

和声進行を本気で勉強しようとすると、専門用語は避けて通れないと思います。ただし、日本語の用語は慣れていない者には意味が取りづらく、むしろ、和声の音からくるイメージを掴む際には、遠回りになる可能性もあると思います。

言葉の勉強ではどうでしょうか。まあ、僕たちは日本語のネイティブ・スピーカーだからでもあるわけですが、「弾く」は動詞で、「美しい」は形容詞で、、、というような発想ではなく、「弾く」という動作、「美しい」という感じ、ということに直ちに思いが行きますよね。

和声についても、恰も僕たちがネイティブの和声の使い手であるかのように、日本語と同じアプローチができないものでしょうか。幸い、僕たちが外国語を学ぶ際の障害(=既に日本語を身につけている分、ゼロから外国語を勉強する外国の子供達のようにはいかない。)は、和声を学ぶ際には考える必要はありませんよね。

そこで、和声進行のイメージを、音の感覚で捉えるようなアプローチを考えてみます。これは一種の遊びですので、和声の勉強の代替手段になるとは思えませんが、実際の和声の響きとして和声進行を捉える一助にはなると思います。

例えば、CEGというc-durの三和音ですが、この3つの音を一つずつ、半音移動させてみます。まず、CをHに置き換えます。HEGとなりますね。これをe-mollの三和音の第二転回などと言葉に置き換えるのではなく、CEGからHEGに変わるプロセスを、音として頭の中で鳴らしてみます。さて、HEGの次にはどんな和音が来るのが心地よいでしょうか? 逆に、どんな和音が来ると意外性があるでしょうか? 

これらの問いへの答を自分なりに出してみます。答は一つではないでしょうが、ともかく、このようにして、ある和声から別の和声という移り変わりを意識化することには、意味があると思うのですね。

また、その先のステップとして、和声を一音ずつ動かしていって最後はCEGに戻ってくるのか、永遠に終わりのない「旅」に出掛けるのか、はたまたEGisHに行き着きたいのか。ともかく、終着点を決めて、そこに向けて一音ずつ動かしていくようにします。

無事行き着いたら、もう一度、最初からそのプロセスをなぞってみます。違和感を感じるところもあれば、自分なりに冴えた和声進行だと感じる部分も(ひょっとすると)あるかも知れません。これも、和声の移り変わりを意識化する面で意味があると思います。

まあ、ここに書いたようなことは、机に向かってすることでもなければ、楽器を持ちながらやることでもありません。理想は、何かの空き時間にちょっと気分転換的にやってみることでしょうか。きっと、和声というものが新鮮な感じで捉えられると思います。

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- Enrico Rocca ca.1880 -
# by violink | 2006-02-07 18:51 | Practise | Comments(0)

音に対するセンス

バイオリンは、基本的には単旋律中心の作品が多いので、曲を練習するときにも、バイオリンのパートを意識する中では、やはり単旋律を意識しやすいですね。つまり、和音の響きを意識して練習するというのは、ピアノとは違って、意識的にやらないとできない面があるわけです。

アマチュアのバイオリン弾きの中でも、少し指が回る人であれば、チャイコフスキーとかメンデルスゾーンのような、早回しの出てくるコンチェルトの譜面をなぞることができる、という人はいるでしょう。しかし、背景で鳴っている和声の進行まで含めて再現できる人の数は、ぐっと少なくなると思います。

そこで、音に対するセンスを磨く必要が出てきます。ここでいうセンスとは、感性というよりも「感じるということ」くらいの意味合いです。ワインのソムリエ、バイオリンの鑑定家などにも共通することのようですが、何しろ多くの実例に当たって、それを自分の記憶に刻み込んでいる必要があるようです。音に対するセンスについても、同じことが言えると思います。

絶対音感とか相対音感とか言われますが、音名を当てる必要は必ずしもありません。そうではなくて、今自分が聴いた音を、自分の記憶に刻み、欲しいときにそれを呼び出すことができることが大切だと思うんですね。音として記憶することが、何しろ大切です。

単音であれば簡単ですが、重音からさらに3、4つ以上の音が重なると、響きが複雑になる分だけ、難しくなってきます。しかし、努力をすることで、記憶できる和声の種類は明らかに増えていくと思います。僕の場合は、小学校の音楽の時間の間の休み時間などに、(先生に内緒で)ピアノをいじり、4~5個の音を一度に1秒間くらい弾いて、弾いた音の当てっこをするようなことをやっていましたっけ。

こういうトレーニングをすると、例えば、通勤途中の電車の中で、コンチェルトの全曲をオーケストラの伴奏付で(頭の中で)鳴らせるようにもなるので、楽譜も楽器もないところで、曲想を練る時間が作りやすくもなります。そういうまじめな効用はさて置いても、楽しいですよね。最新型のCDチェンジャーよりも素早く曲の入れ替えが出来ますし。。。(笑)
# by violink | 2006-02-07 12:30 | Practise | Comments(0)

弓の返しのイメージ

弓を返すときに、返した後の音がきちんと通っていくためには、弓を返した瞬間から音が立ち上がっていることが大切ですね。ただ、この「立ち上がっている」というのが曲者で、アクセントを付けるという意味でもなければ、立ち上がった瞬間がハッキリと聞こえるということでもないのですね。

音が始まる瞬間がどの程度クリアに聞こえるべきか、というのは、最終的には音楽表現に関わるトピックだと思います。要は、表現したいことに応じて、敢えて長方形に喩えれば、縦1ミクロンの長方形かも知れなければ、はたまた縦1メートルの長方形なのかも知れません。1ミクロンという長さは遠くからは判別不能でしょうが、それでもこれはこれで長方形を成してはいるのですね。

イメージトレーニングの仕方として、机の上に右手の掌をうつぶせにして置きます。そして左右に机をこするように動かします。そのときに、右端での折り返し、左端での折り返しは瞬間的にやるようにします。そうすると、折り返す瞬間に指先に「カッ」という感覚が感じられると思います(音はしませんが。)。掌が一瞬静止して、机の表面との間で摩擦が発生し、その摩擦を打ち破る瞬間の感覚ですね。

この感覚を、弓を持ったときに右手で感じることが大切だと思います。机の表面は弦、掌は弦を擦っている弓の毛に対応します。摩擦を打ち破る感覚ですから、縦方向ではなく、弓を動かす方向の力で発生する感覚です。

弓に腕の重みをかける度合いが変わっても、基本的には、上記のイメージトレーニングでイメージ作りをすることができます。この感覚が分かれば、弓の返しをスムーズに行い、しかも、必要な音の立ち上がりを得るようにすることに役立つと、僕は思います。


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- Grand Adam -
# by violink | 2006-02-03 12:55 | Bowing | Comments(2)

和音から得られるヒント

最近、フランクのソナタの1楽章の和音進行を丁寧にみているのですが、そんな中で気づいたことがあります。専門家の方々からすれば、和声学の基本と言われてしまう(か、邪道と言われる)かも知れませんが。

この楽章では、セブンスコード(例えば、c-durであればCEGB。以下、c7と書きます。)とかナインスコード(例えば、c-durであればCEGBD。以下、c9と書きます。)というものが頻繁に出てきます。気づいたことはいくつかあるのですが、その一つは、これらのコードは、その先を予感させるもので、オチが必要になるコードなのですが、オチのように見えてその先がまだあるケースや、予想外のオチが待っているケースが多いのです。

c7→FACと解決するのかと思えば、c7→f7→BDFと続くケースは前者の例ですね。こういう箇所では、c7→FACのようにみせつつ、その先があることを予感させる、そんな弾き方ができないかなと思います。

もう一つは、和声一般の話ともいえるのですが、このナインスコードのトリッキーなところを、フランクが巧みに利用しているということです。c-durの例であれば、c9はCEGBDとなりますが、これは、CEG(c-durの3和音)とGBD(g-mollの3和音)の組合せとみることもできます。ところが、これらを組み合わせると、ナインスコードという一つの性格を帯びてしまうのですね。

例えば、ピアノでC-GBDとかCEG-Dとか弾いてみると、それぞれ音としては、d-moll、c-durが中心であるはずなのに、そうは聞こえず、ナインスコードが聞こえます。相手方の音を一音でも残してしまうと、即、ナインスコードになってしまうんですね。

フランクがやっていることは、例えば、c9の後で、c9からGBだけを外してg-mollを響かせてから再びc9を登場させるという手法です。このc9に挟まれたg-mollの響きは、心底g-mollという感じでもなく、どこかに洒落っ気のあるフワッとした感じなので、どう弾いたものか、いろいろ思いを巡らしているところです。

楽譜を丹念にみていくと、いろいろ発見があるものですね。


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- Jean Baptiste Vuillaume ca.1860 -
# by violink | 2006-02-03 06:18 | Interpretation | Comments(0)

「あること」の意味と「ないこと」の意味

音楽作品は、自分が掘り下げて勉強しようと思うほどに分からないことが増えてくるものだと思います。それは、楽譜に書かれたことや音として聞こえることのうちの、より多くのこと、より細かいことに注意が向くからですね。

また、そのようにして、一度、自分の意識に上ったものは、どのような意味を持つものか、探求させずには置きません。作曲家が何故その音を選んだのか、自分なりに想像してみることは楽しいことですし、また、こうした想像のプロセスを繰り返すことで、自分の中にも一定のイメージが出来てくるのだと思います。

フランクのバイオリンソナタの第三楽章で、盛り上がるだけ盛り上がった後で、フッと雰囲気が変わり、バイオリンが、B-H-D-Cis, B-H-D-Cis, Cisと奏でるところがあります。Fisのmajorの響き←→Hのminorの響きの交代が2回繰り返された後で、Fisのminorの響きに行き着きます。この2回繰り返しのところでは、ピアノのパートの最低音はCisで、しかも、時々しか出てきません。何故、Cisなのでしょう。何故、時々なのでしょう。

2回繰り返しの後で、ピアノの最低音としてFisが出てくるのがポイントだと、僕は考えています。Cisとは、Fisのmajorを構成する音で、いわば転回形となっているのですね。根っこのない不安定な感じが漂います。しかも、Cisは時々しか出てこないので、その次に高い音であるFisが、短くも頻繁に聞こえます。これは、最後に最低音でFisが出てくることの予兆のように聞こえるのです。

それもこれも、全て、最後のFisのminorの形を印象づけるための前座のようなものとして感じられます。この形が持つ存在感に対して、その直前のフレーズの不安定さ、それは音程の構造上もそうですし、majorとminorの交代もそうですが、その不安定さをどう表現するか。それが、現在の僕自身が直面している課題なのです。

そして、その不安定な感じをどうやってFisのminorの形の存在感に結びつけていくのか、これは優れて精神的なアプローチになってきますね。ダイナミクスをどうするとか音程をどうするとか、そういうことではなくて、自分の気持ちの持って行き方をどうするか、という問題だと思います。自分の人生経験(という大袈裟なものでもないのですが)に照らして、ぴったりくる心象風景を引っ張り出してくるような感覚でしょうか。

さて、この話は、「あること」と「ないこと」の喩えなのです。「あること」で意味をもつ音と、「ないこと」で意味を持つ音とがあるということが言いたかったのですね。葦で編んだバスケットの中に、リンゴとみかんと西洋ナシが入っていたとします。この中からみかんを選ぶ人は、みかんが好きだからかも知れないし、リンゴや西洋ナシほど嫌いではないからかも知れないのですね。

作曲家が音を選ぶプロセスも、こういうことにどこか似たところがあるのではないかな、というお話でした。私見なので、異論も当然あると思います。

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- Annibale Fagnola 1919 -
# by violink | 2006-02-02 18:47 | Interpretation | Comments(0)

<番外編>「原因」と「結果」

原因から結果が生まれる、ということは自明ですが、最近、世の中では、結果を生み出すための「促進剤」のようなものの「開発」が盛んになっていると思います。

例えば、モノを売るときにも、どういうものが売れるのか、から始まって、どう説明すれば売れるのか、となり、何を売るかよりもどう売るかのノウハウの方に、重心が移ってきていると思います。買い手が買いたくなるような説明を散りばめたアドで、世の中は埋め尽くされているとも言えます。

それで売れれば結果オーライですし、売れなければ話にならない。モノを売るということに関しては、それでよいのでしょう。では、演奏ということについてはどうでしょうか。実は、演奏についても、モノを売るのと同じようなアプローチが、最近は増えてきているように思います。演奏効果を狙った味付けの仕方というものがあり、それが演奏の印象を高めるというわけです。

話は多少飛躍しますが、例えば、化学調味料の味に慣れると、天然調味料の味が物足りなく感じると言われます。味の調え方としてどちらが優れているのか、というと、これは好みの問題にもなるわけですが、化学調味料というものが、天然調味料を模倣したものであることを考えれば、味の本質は天然調味料にあると言えるでしょう。

ただし、普段、化学調味料の味に慣れている人が、それをおいしいと感じるかどうかは別問題ですし、天然調味料の方がコストがかかるために、コスト・パフォーマンスを考えてしまうと、化学調味料でいい、ということにもなるでしょう。

そんな中で、音楽表現における必然とは何か、ということが問題になってきます。どこまで、どんな味付けをすることが、ある作曲家の作品の料理の仕方として、適当であるのか。これは、文章では書き切れない深遠なテーマであります。最終的には、自分の「舌」に頼るしかないわけですが、その判断基準として、何を据えるかということが重要ですね。

世の中で数多く売られているCDの中には、宣伝費をかけて売出し中の話題満載の演奏もあれば、数十年間前からのロングセラーもあります。いろいろな演奏を楽しむという意味で、売出し中のCDも楽しく聴けますが、地味ながら売れ続けるロングセラーの方には、音楽表現における必然を見つけるヒントがあるような気がします。

最近、僕が聞き直したCDとして、シェリングvsヘブラーによるベートーヴェンのソナタ全集、カントロフvsルヴィエによるフランクのソナタがあります。何れも、書棚に長く「滞在」しているCDで、折に触れて聴いてはいたのですが、今頃になって、僕に対して訥々と語りかけるようになってきました。

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- Antonio Stradivari 1716 "Soil" -
# by violink | 2006-01-31 23:18 | Performance | Comments(0)

仮説と検証

楽器を弾くときに、表現ということを掘り下げれば掘り下げるほど、楽譜に書かれている情報と、自分が表現すべきこととの間に大きなギャップがあることに気づきます。「すべて楽譜に書いてあるからそれを表現しさえすればよい」とは、よく言われますし、僕も基本的にそのとおりだと思いますが、それでも、このギャップの存在は明らかだと思います。

同じ文学作品を自分で音読するときと朗読を聴くときとで、込められているニュアンスが相当違うのも、似た例だと思いますね。文章に書かれていることは、ある意味では楽譜よりも単純で、そこには文字と句読点しかありません。そこに何を付け加えて朗読者は朗読するのでしょうか。

それは、作者が文章に込めようとしたニュアンスを自分なりに汲み取り、それを表現しているのでしょう。音楽表現もその点は基本的に同じだと思いますね。

さて、それでは、作曲家の意図をどのように汲み取るか。その意図には、音符単位の細かいものからフレーズ、楽章、曲そのものに至るまでの、場合によっては複数の曲のセットにまで拡大できるような、様々なレベルの意図が存在すると思います。

これを表現しようとすると、様々な表現の可能性の中からスクリーニングを行って、よりよい表現を選び出していくという作業が必要になります。いわば、仮説を立ててそれを検証し、検証結果が好ましいものを選んでいく作業と似ていると思います。

ただし、物理的に可能な表現のオプションをすべて試すには、時間がいくらあっても足りませんし、試した上でスクリーニングを行うためには、判断基準というものが必要ですね。

そこで、作曲家のクセというかキャラクターというか、そういうものを感じ取るセンスが重要になってくると思います。基本的には、漠然とは誰でも持っているセンスだと思いますね。プロコフィエフの作品を聴いて、モーツァルトの作品だと思う人は恐らくいないはずです。

ただし、この二人の作曲家(極端な例示ですが)のキャラクターがどう違うから間違いようがないのでしょうか。それは、比較によるのではなく、それぞれのキャラクターを自分なりにつかんでいて、相手のキャラクターがそれとは違うからだと思います。

作曲家のキャラクターを、小から大へ、大から小へと、自分なりにイメージとして持つようにすることで、先ほど述べた仮設と検証の作業は、驚くほど効率的になります。(というより、このイメージがないと、表現に辿りつきさえしないのです。)

人からもらったメールや手紙を読むとき、何故か、その人の声で読んでいませんか? それに似たことが楽譜を読むときにもあるのだと思います。少なくとも、そのような認識を持って楽譜に向かう、というイメージ作りから始めてみるのもいいと思いますね。
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- Bartolomeo Giuseppe Guarneri 1741 "Vieuxtemps" -
# by violink | 2006-01-19 11:28 | Expression | Comments(4)

2つの問いかけ

人間には一人一人の異なるキャラクターを持っていますよね。日常生活は、そのキャラクターから出てくる言葉・行動がその人なりの味となって、存在感を作っていると思います。同じ人が楽器を弾くときはどうでしょうか? 楽器を弾くというのは、僕は非日常の行為だと考えています。尤も、日常的に弾く人はいらっしゃると思いますが、行為としては日常的なものではないと思うんですね。

というのは、楽器を弾くときに自分が纏っているキャラクターは、自分自身のそれとは同一ではないからです。第一に、表現手段が自分のものではありません。楽器から音を出しています。第二に、表現する内容が自分からそもそも発せられたものではありません。作曲家の作品です。

こういうわけで、表現しようとするときに、直ちに2つの違和感があるわけですね。自分の中から生まれた感情を自分の声で表現するのに比べると、どうしてもある種の「ぎこちなさ」を感じざるを得ないわけです。

逆に、この「ぎこちなさ」を可視化するというか、感じ取れることが出発点なのだと、僕は考えています。この「ぎこちなさ」の感覚から、「どうやって?」と「何を?」の問いかけが生まれるからで、この問いかけにどう答えるかが、要するに、その人が楽器を通じて行う表現に他ならないわけですね。

これらの2つの問いに如何に誠実に答えようとするか、その態度そのものが、その人の演奏の価値を決めると言っても過言ではないと、僕は思います。そこに、テクニックの巧拙ということでは割り切れない部分が生じます。逆に、歌心だけでも割り切れない部分が厳にあります。

いわゆる巨匠というのは、この両面を極めて、しかも、楽器をいとおしみ、作品を敬愛するレベルに達した人たちを指すのではないでしょうか。僕は、あくまでこの2つの問いかけの延長上に、巨匠というレベルもまた存在すると思います。

今回は、いささか哲学めいてしまいましたが、何か感じ取っていただけるものがあれば、嬉しいですね。
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- Giovanni Battista Rogeri 16?? -
# by violink | 2006-01-17 06:02 | Performance | Comments(3)

言葉のニュアンスを音に込めたい(続編)

言葉のニュアンスというと、もう一つ、一文の中でのニュアンスの変化ということがありますね。例えば、「彼女の嬉しそうな顔といったら。。。それはもう、なんと言うか。。。」というフレーズを思い浮かべてみます。表情豊かに話そうとすれば、「嬉しそう」とか「それはもう」というパーツのところに思いがこもりますよね。

音楽でも、一つのフレーズの中でのうねりのような、ニュアンスの交替がありますね。これは、この直前のブログに書いたことよりもミクロなことです。それでいながら、一音単位でアクセントをつけるという細かい話よりは、もう少し大づかみな話です。

言い換えれば、細かいニュアンスと大きいニュアンスは、比較的認識されやすいのですが、その中間となると、せいぜい、小さなクレッシェンドやディミヌエンドのことが指摘される程度で、それ以上の多様なニュアンスには入り込まないことが多いと思います。

それはそれで無理もなく、このような中間のニュアンスは、楽譜には書かれていないだけに、どうするかは弾く人のセンス次第というところがあります。また、例えば指揮者などが一々言葉で示すのもぎこちないので、そういう意味でも、弾く人次第ということだと思います。

しかし、言葉のニュアンスからイメージしていくことで、難なくできるアプローチなのだと思います。それで、「準備運動」としては、言葉も、普段何気なく話しているときには出て来ないニュアンスがあるので、これを、意識的にニュアンスを込めるようにしてみることですね。言葉を話すときのニュアンスを多様にする(実際に日常生活の中でそう話すかどうかはともかく。)ことで、音楽と向き合ったときに感じ取れるニュアンスも多様化するのだと、僕は考えています。

表情豊かな演奏、その人なりの表情が、どことなく漂う演奏を、僕も目指しているところです。
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- Leandro Bisiach I 19?? -
# by violink | 2006-01-12 12:06 | Expression | Comments(0)

言葉のニュアンスを音に込めたい

言葉でもそうですが、音楽でも「遠回りに言う」とか「強調する」とかいうニュアンスが込められている場合があります。ただし、どこがそれであるかは、弾く人自身のセンスを頼りに探し出すしかありません。人によって感じ方が違う場合も、当然あるでしょう。

さて、ここで、「遠回しに言う」ことと「強調する」ことは、ある意味で対極にあることで、メッセージとしてどちらが強いのかと言えば、ケースバイケースなのでしょうが、少なくとも表面上は、前者はメッセージが弱く、後者は強いと言うことができるでしょう。

このようなニュアンスを表現しようとするとき、手近なところでは、例えば、ダイナミクスの工夫や、アタックをつけるという工夫が思い付きます。しかし、本当はダイナミクスやアタックというもののねらい自体が重要だと思うんですね。

それは、一音一音のクリアさのコントロールです。左手の指の置き方、右手の弓の弾く位置などを工夫して、いろいろ組み合わせてみると、同じダイナミクスであってもアタックであっても、音のクリアさということに関しては、更にコントロールする余地があることに気づくと思います。

更に言えば、ダイナミクスが表現されている、というように聴き手が感じるのは、実際の音量以上に、音のクリアさの程度を聞き分けているのではないでしょうか。

一つ一つのフレーズから自分なりのイメージをつかんで、それを言葉を話すようなつもりになって弾きさえすれば、この辺のことは理解しやすいと思いますね。

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- Giuseppe Pedrazzini 1911 -
# by violink | 2006-01-11 07:53 | Expression | Comments(0)

弓の返しのイメージ作り

バイオリンの弾き方というのは、ある意味でシンプルですので、ボーイングにしてもポジション移動にしても、そのための右手なり左手の動きには、一応の約束事はあるにしても、かなりの部分は弾く人それぞれの工夫の積み重ねの中で習得されていくものだと思います。

それは、言い換えれば、ボーイングとかポジション移動という手の動きそのものから一歩離れて、自分なりにイメージを作ってみるというプロセスの積み重ねだと、僕は考えています。そのときに、どのようなイメージを想定するかと言うと、それは、バイオリンを弾くとき以外の手の動きです。右手にしても左手にしても、バイオリン特有の動きはあるにしても、結局、両手の可動範囲の中でしか動きませんので、バイオリンを弾くとき以外の手の動きから、イメージを作ってみることは役に立つことがあります。

さて、弓の返しのイメージですが、「頭をつけない」とか「圧力をかけない」とか、「弓を返す前後で同じスピードで弾く」とか、まあ、注意点を言葉にすれば、いろいろあるわけですが、今回はちょっと趣向を変えて、アップは「弓先で何かを突き刺すイメージ」、ダウンは「弓元で何かを押し込むイメージ」として捉えてみたいと思います。

このようなイメージを持つメリットは、要は、頭をつけるとか圧力をかけるということを、意識の外に追いやることができること、及び、「突き刺す」スピード、「押し込む」スピードということに注意が向く点にあると思います。更に言えば、アップで「突き刺す」練習は、弓を弦に置かずに、弓先の存在感を右手の中指できちんと感じるようにする(=「突き刺す」方向が弓の延長線上でブレない。)ことが大切だと思います。

これは一つの例でしかありませんが、そのように、手の動きをバイオリンから離れてイメージしてみることは、練習の中での気分転換にもなりますし、やってみる価値があると思いますね。
# by violink | 2006-01-10 22:32 | Bowing | Comments(2)

左手の指同士の独立性

最近、人差し指をちょっと痛めまして、10度を押さえるのに少々苦労しているのですが、そんな中でも感じたことがあります。それは、人差し指以外の指で弦を押さえているときでも、時として、人差し指が痛くなるのです。

それは、要するに人差し指に余計な力が入っているからなので、脱力が大切であることには違いないのですが、そもそも、ひとつひとつの指の動きはお互いに完全に独立しているわけではないので、限界があるのも事実ですね。

例えば、薬指と小指はかなりお互いにつながっているので、薬指を立てたまま小指を完全に折り曲げるのは至難の業ですね。程度の違いはあれ、同じようなことが他の指についても言えるのだと思います。

そこで、どうするかなのですが、今のところ、弦を押さえる指の力を必要最小限にとどめる、ということと、弦を押さえていない指の脱力を心がける、ということしか思い付きません。が、これをやることで、これまで弾けなかったパッセージに指がついてきてくれるような実感が既にあります。1兎を追ううちに2兎を得たような気分です。。。
# by violink | 2005-12-27 06:01 | Relaxation | Comments(6)

major <-> minor のトーンの転換

転調の中でも、major と minor の間で転調するものは、どのようにしてその転換を聴かせるか、悩ましいところですね。巷で売られているCDにも、そうした「悩ましさ」をこなした後が聞こえる演奏と、そもそも何が悩ましいのか認識されていないと思しき演奏があります。

この問題は、major と minor のそれぞれの世界の中で音程がきちんと整っている、ということとは別次元の問題で、調がどうであれ、「majorらしさ」 と 「minorらしさ」 の違いをどう聞こえさせるか、という問題であるわけです。

僕が最近気を付けていることは、major から minor への転調では、標準的なピッチを全体的に低目に持っていくことです。極端に言えば、major では A=443Hz で取っているところを、 minor に転換してからは A=441Hz で取るようにするようなイメージですね。

これは、なかなか精緻にやろうとしても上手く行かないのですが、このアプローチをとることで、確かに、major から minor や、その逆の転調がそれらしく聞こえるんですね。

このようなアプローチが正しいのかどうか、自分には分からないのですが、現に、転調のニュアンスをよく表現できるので、これからも追求していきたいと思っています。
# by violink | 2005-12-20 17:51 | Pitch | Comments(0)